おお!東の空が明るい

SNSじゃ言い切れないガチトーク

境界を定めないと気が済まない我々

こんにちは。

 

今日は軽く最近感じていることを書きたいと思います。

 

タイトルでえげつなくハードな文章感が出てるかもしれませんが、あとで内容はわかると思うので、気楽に読んでください。

 

気になったのはこの記事↓

 

www.newsweekjapan.jp

 

アメリカ人の芸人のパックンが書いている記事なのですが、現在、日米の二重国籍を持つ大坂なおみ選手が、日本の法律上22歳になったらどちらかの国籍を選ばないといけないという問題についてです。

 

彼女の選択次第では、東京五輪などをアメリカ代表として戦う可能性もあるということです。

 

それにしてもパックンの日本語能力が半端ないですがそれは本題からそれるのでこれ以上は触れないでおきます(笑)

 

上のような問題のように、二重国籍を認めないという法律では、日本から優秀な人材が流出していってしまう可能性があります。

 

また、優秀な外国人労働者が、日本の国籍を得て日本で働くには自国の国籍を放棄しないといけないとなれば、放棄した場合の様々なデメリットをともなうため、日本で働くのをためらうかもしれません。

 

グローバル化、すなわち国どうしの人や物の行き来が加速していくなかで、
これから日系2世とか移民で活躍する人はゴロゴロ出てきそうですし、何か国籍に代わる権利を考えたりとか、法律とかも考えないと、厳格なルールのせいで物事の発展が遅くなる気がします。
 
もちろん、スポーツや統治にはルールが必要です。
 
しかし、スポーツの話になりますが、この前、男性ホルモンであるテストステロン濃度が高くて生物学的に女性じゃないと判断された、これまでは女子として生活してきた陸上選手もいると知って衝撃を受けました。
 
彼女はテストステロン濃度を減らす治療をしないと大会に出られないかもしれないそうです。
 
普段の生活の性別とスポーツの性別は必ずしも同じではない…のでしょうか…
 
人間は、おそらく生存本能的に「何かわからないあやふやな状態」であることを嫌うし、多くの文明的活動は何かを定義することで進んできたと言えます。
 
しかし人間が何かを認識するために定義をする以上、「定義の中間(反例といったほうが適切かも)」みたいな存在がほぼ必ず現れるのではないでしょうか。
 
人間がウイルスを生物か生物じゃないか決めきれないように。
 
たぶん、性別も国民性も、連続した色のみたいになってて、本来、ここからが男!ここからが女!というようには、線引きできるものではないのではないかと思います。
 
LGBTと呼ばれる人たちもいるし、日本に住んでいてもめちゃくちゃ韓国が好きで詳しい人もいるし。
 
決めたら都合のいいことが多かったから定義したのでしょう。
 
今のところ、オリンピックは国の代表どうしの対抗。
 
グローバル化が進む現代、何によってその国の人(○○人)であると言い切れるのでしょうか。
 
投稿はしてみたものの、僕のなかでも答えはよくわかりません。
 
でもこういうことについて多くの人が知って、考える人が増えることで、いつかいい方向に持っていけるかもしれません。
 
なのでこうやって皆さんに定義しています。
 
三人よれば文殊の知恵。
 
70億人よればどうか。
 
みんなで困難な問題を乗り越えていきたいですね。

選択することからは逃げられない #読書録2

こんにちは。

 

今日も読書録を書いていきます。

 

今日も前回と同じく「人生の教養が身につく名言集」にて感じたことについてです。

 

ですが、今から書くことはこの本を読まなくても、人生の岐路に立った時に1度ぐらいは感じたことがある人は多いのではないでしょうか。

 

それは、人生は選択の連続だということ。

 

どこの会社に入るかとか、どこの高校に行くかとか、何の部活に入るかとか、そこそこ大きな選択から、

今日の晩御飯は何にするかとか、ジュースを買うかなどの比較的小さな選択まで、毎日何かしらの選択をしながら我々は生きているんですね。

 

生きている限り、すなわち過去から未来への時間の流れの中に身を置いている限り(置いていない方がいたら教えてください笑)、今ここで下した選択が反映された人生を生きていくということになります。

 

このように選択しなければいけないので、納得のいく結果が得られなかったとき、

 

「ああ、~だったら○○だったのに」「~れば○○だったはずだ」

 

このような感情に陥ってしまうことは人間誰でもたまにはありますよね。

 

僕は高校野球をやっていましたが、最後の夏の大会で、1-3で負けて引退となってしまった試合で、6回表にツーアウト1,2塁のチャンスで打席がまわってきて打てなかったことを未だに悔しがっています。

 

あれからもう4年以上経ちましたが、何度もその場面が脳裏に浮かんで、「打って点が入っていたバージョンの世界」なんかを想像してしまいます。

 

それほど執着があったことなので、思い出すのは当然かもしれませんし、悪いことではないと思うのですが、結局、いくら悔しがっても過去は変わりません。

 

AかBの選択肢があるときにAという選択をしたならば、Bを選択した場合の人生は存在しません。

 

「打って点が入っていたバージョンの世界」は「あり得ない世界」なのです。

 

シェイクスピアの「オセロー」の中にこんな一節があります。

 

「過ぎてかえらぬ不幸を悔やむのは、さらに不幸を招く近道だ」

 

この一節を用いて著者は、過去を悔やんだところで、気が滅入るだけだから貴重な時間が無駄になっていくと述べられています。

 

この意見にある程度共感はできるのですが、その悔しさをばねに変えられるのなら、必ずしも後悔が不幸を招くとは限らないのではないのでしょうか。

 

僕は先ほどの高校球児時代の経験は、「ここで打つにはまだ気持ちや努力が足りていない。お前はまだまだやれる」という神様からのメッセージだと思うようにしています。

 

後悔するのはいいと思います。重要なのはウジウジ後悔しないこと。

 

後悔をプラスに変えることができれば、失敗が「大事な経験」へと変わります。

 

これからの人生でやり返してやろう。

この高校最後の試合のシーンが頭に浮かぶたびに思うことです。

 

 もう一つ、人生を生きていくうえで忘れてはいけないと思うのは、選ぶ選択肢があれば、捨てる選択肢もあるということ。

 

大学に入ると、時間もありますし、可能性が無限大のような気がして(もちろん無限大なのですけど)、「あれもできる、これもできる」という感覚でした。

 

しかし、大きな夢を見て何かを始めようとしても、うまくいかないことが多々あります。

 

僕は1年ほど前に漠然とプログラミングができたらいいなと思って始めようとしましたが、あまり続きませんでした。

 

続かなかった理由は単純です。目標があいまいなこと

 

目標があいまいだと、今日どのくらいやればいいかや今週何をすればいいかがわからず、さらにどこに向かっているのかがわからないので、どれだけプログラミングを上達させたい気持ちがあってもなんとなく手につきません。

 

そのような思いつきでやることは一瞬で冷めてしまいます。

 

僕の話ばかりですがスペイン語にしてもそうです(笑)

 

僕はサッカーが好きなのでスペインに行ってみたい気持ちがあるのと、南米の自然を見てみたいので漠然と、そこで話されているスペイン語を勉強したいという気持ちがあるのですが、今のところ「行く」という確固たる予定がないので日本で普通に生活している限り全然勉強は捗りません。

 

やっぱり、必要性にかられないと人はそう簡単には動けないのかもしれません。

 

もうさっさと南米行きのチケットを取ってしまったほうが絶対勉強しますね(笑)

 

今は、プログラミングというほどではありませんが、研究で統計解析やゲノムの解析を自分の手で行いたいという目標があるので、そのためにはまずどういったことを覚えないといけないのか、できる人と比べて自分に足りていないものは何かという風に、目標とそれをつなぐ過程のようなものが見えてきています。

 

その過程のなかにもおそらく小さな目標がたくさんあります。

「このコードは今一番やりたい遺伝子ネットワークの解析に必要だからまず覚えよう」とかです。

 

そういった小さな目標を達成することの積み重ねが、統計解析やゲノム解析を自分の手で行うという大きな目標へとつながっていくのだと思います。

 

タイトルや途中にも書きましたが、何かを選ぶときには必ず「捨てる」選択肢もあります。

 

あれもこれもは選んでいられないのです。

 

ではどうやってたくさんある「やりたいこと」のなかからやるべきことを見出せるか。

 

僕は、目標と過程が見えていることを優先すべきではないかと思います。

 

やりたいことは僕も正直たくさんあります。

自転車旅、海外旅行、スポーツ観戦、登山、ランニング、料理、英会話、スペイン語、読書、カメラ、ブログ、映画鑑賞、筋トレ、研究、プログラミングなどなど。。。

 

これらをすべて全力でやり切ることができるでしょうか。

 

おそろくできません。

すべてに「手をつける」ことはできると思いますが、それではほとんど何も身につきません。

 

すべてが中途半端となっては何も前に進まないのです。

 

もしそれで他の人より抜きん出たいと思っているのであれば、「手をつけた」程度の人は世界にごまんといるので、能力としてはたいしたものにはなりません。

 

10個に10の力を注力していたら1個に1の力しか捧げることができませんが、その力を選んだ2個に注力すれば1個につき5の力を捧げることができます。

 

という風にやることをしぼっていき、その選んだものを一つ一つ洗練したいものです。

 

他は趣味程度に気分転換としてやれたらいいですね。

 

目標と過程が見えるには、そのことについて深く考えなければいけません。

 

深く考えるのは、そのことが自分にとって重要だと感じているということです。

 

重要だと感じているということは、人生において大きなウエイトを占めている、そのことが好きだ、一生かけてもやっていきたい、そういう存在であるということです。

 

そこまで好きなことなら、もうすでに目標などを決めていることでしょう。

 

逆に、そこまでの熱がないものは、捨てる。

やるとしても気分転換程度にやったほうがいいということだと思います。

 

タイトルで、年をとることは可能性を捨てていくことだと書きましたが、逆に言えば、

情熱を向けることができる、深く考えられることに絞っていくことと言えるのかもしれません

 

年をとると自分の力で生きていかなければなりません(周りに助けてもらうのもその人の力として)。

 

そこで、何の能力で生きていくか。

 

それを考えるうえで、無駄なものは捨てていき、いくつかの情熱をもてるものに集中し、それらを研ぎ澄ましていけたらいいですね。

 

情熱とかについてまた書けたらなあ、と思います。

 

今回はこのへんで。

 

 

教養とは何か #読書録1

こんにちは。

 

いきなりですがこれからは時々、読書をして感じたことをできる限り自分の言葉で残していきたいと思います。

 

理由は前回の投稿で詳しく述べています。

開設の詔 - おお!東の空が明るい

 

ここでちゃんと皆さんに言っておきたい(し勘違いしないように自分にも言いたい)のは、これは本の紹介ではないということ。

 

ある本をおすすめするものでもありません。

 

本当にそこで感じたことを書いていきたいと思うので、もしかすると本自体の内容からものすごく離れたことを書くかもしれもせん。

 

なので、大学生になっても勝手に読書感想文やってる変なやつ程度の軽いノリで読んでいただけたらと思います。

 

でも昔書いた読書感想文よりはパワーアップさせて、本の内容を自分の生活に落とし込んだりした文章にしたいです。

 

「~だった。」「~と思った。」だけでは本当に小学生の読書感想文になっちゃいますので(笑)

 

というわけで、読書録を始めていきたいと思います。

 

記念すべき読書録の第1回は「教養」について。

 

教養という言葉は普段の生活でも時々耳にしますし、大学生は1年目に「一般教養」みたいなくくりの授業を受けると思います。

 

また、「教養はあったほうがいい」「教養がない」などのよく聞く会話から推測するに、一般的にも教養は身につけるべきものとして認知されている気がします。

 

今回、読んだ本のタイトルは、

「人生の教養が身につく名言集---『図太く』『賢く』『面白く』」

 

最初にタイトルを見た時の僕の印象は、なんか、うさんくさい…

 

僕の初めの勝手な想像では、名言がずらーっと羅列されて、単調で読むのに飽きるのではないかというものでした。

 

ただ、実を言うと僕はけっこう名言と呼ばれる部類のものが好きです。

偉人やスポーツ選手など、世界に大きなものを残している人たちは数々の修羅場をくぐり抜けてきているので、考えが洗練されているし、説得力があります。

 

この本はAmazonのPrime Readingの読み放題で読めたので、もし飽きたら読むのを止めようという気持ちで読み始めました。

 

 著者は出口治明さん。

 

大手保険会社に長く勤め、還暦を迎えてからライフネット生命を起業した方です。

 

この情報だけでも興味深いですが、本を読み進めて思ったのは、出口さん自身、本当に本が好きなのだなということ。

 

出口さんの圧倒的な読書量に由来するであろう故事のエピソードなどがたくさん出てきて次第に引きこまれていきました。

 

全体を通して、出口さんの、本から学ぶことすなわち偉人の行動などから学び、自分でそれをかみ砕き、アウトプットすることで、より人生が豊かになるというメッセージが伝わってきました。

 

出口さんも述べられていますが、僕も、「教養」は、人生をワクワクするものにさせてくれるものだと思います。

 

二十歳を過ぎたばかりの僕が言うのもなんですが、「教養」によって人生の楽しみは増えると思います。

 

例えばヨーロッパを旅行するにしても、建造物の建てられた背景やその土地の歴史などを知っているのといないのとでは、楽しめる度合いが違ってくるでしょう。

 

この建物とあの建物は同じ時代に建てられたから似ているだとか、違う国のあの建物を模倣しているなどと、何も知らない人が素通りするところで新たな発見が得られるはずです。

 

このように人生を楽しむだけでなく、対人関係や将来についてなど、人間誰しも生きていれば何かに悩むことはあると思いますが、これも知識の引き出しが多いほど対処方法をすぐに思いつくことができたり、そもそも悩むほどのことでもないという判断を下しやすくなるかもしれません。

 

出口さんは知識の吸収の仕方について、「縦横思考」という言葉を用いられています。

 

縦とは時間軸、すなわち歴史のこと。

 

古典や歴史の本から昔の人はどのようなことを考え、どのような生き方をしていたのかを知ることで、自分の考え方や生き方を顧みて、そこに反映させていく。

これが縦の考え方。

 

つづいて横とは空間軸、すなわち同じ時間軸において異なる環境にいる人や物のこと。

 

世界には日本とは全然違う文化や風習があります。そこまで大きなものでなくとも、気候や考え方など数えるときりがないぐらい違いがあります。

 

どちらが良いとか悪いとかではなく、なにが原因となって違うのかなどを知ったり、比較することで、より知識に厚みが出ます。

これが横の考え方です。

 

今から書くことはもう言われ過ぎていて刺激的ではないかもしれませんが、このようにして得た知識はアウトプットすることで自分のものになります。

 

アウトプットするためには自分の頭でそのことについてよく考えて整理しておかないといけない。

 

これを言うと僕がこのブログを始めたのもかなりこの本に影響を受けてのことということがわかるのではないでしょうか(笑)

 

実際、この本を読む前にとある本を読んでいて、その本について友人に説明しようとしましたが、肝心なところを思い出せないという経験をしました。

 

その後にこの本を読んだときに、「そうか、ただ本を読んだだけでは意味がない。そこで学んだことを使えないと、せっかく読んで感動したことが無駄になる。」と思い、こうやって学んだことをまとめる決意をしました。

 

ならば、自分でまとめるだけでなく発信したほうが、人に伝えようとするぶん、よりそのことについて深く考えられるし、もしそれが読んでいる方に楽しんでもらえるものならなお良いなと。

 

これが、僕が自分で考えた僕なりのアウトプットです。

 

がんばります(笑)

 

そうやって得た知識で人生を楽しんでいきます。

 

では、そうして得た知識で楽しむために、何かを評価する、判断を下すときに重要となってくるのが、「国語」ではなく「算数」で判断するということ。

 

たぶんこれを見ただけでは意味が分かりませんし、国語が好きな人は怒るかもしれませんが、説明していきます。

 

これに関して例を自分で考えようとしましたが、本文中の例がとてもよく、これよりシンプルでわかりやすい例を思いつかなかったので本文と同じ例で説明します。

 

ネタバレが嫌な人は読まないでください(笑)

 

「国語」で考えるとは、「清水の舞台から飛び降りてみない?」と言われたときに、「高いところから飛び降りるのは危険だからやめておこう」というように、言葉の上っ面だけで考えてしまうことです。

 

これでは清水の舞台から飛び降りるという行為がどのくらい危険なのかがあやふやで、ぼんやりとしたリスクに対して勝手に恐れているという状態です。本当に危険なのかどうかすらわかりません。

 

これに対し、「2メートルしか高さがないから大丈夫だ」「8メートルもあるから怪我を負う可能性が高い」などというように数字をもとに考える、すなわち「算数」で考えることで適切な判断を下しやすくなります。

 

「算数」で考えることで判断基準ができ、飛び降りることのぼんやりとしたリスクを、どちらが適切か(得か)のコストに置き換えることができます。

 

たとえば、飛んだら5万円あげるよ!などといわれたときです。

※ただの例なので絶対に真似しないでください

 

僕個人としても、大学生として研究室に所属しているので、研究の世界でも「算数」で考えることは大事なのではないかと思います。

 

なんとなくの感覚ではなく、きちんと数値をもとに判断を下し、より正確な研究や情報収集を行っていきたいと再認識することができました。

 

偉人、歴史上の人物の言動や行動から学び、自らもそれらを参考にして行動を起こしてみる。

すると、数々の人物が我々の人生を面白くするヒントを与えてくれていることに気づきます。

 

ルネサンス期のフランスで、プラトンの思想を研究・発展させたベルナール・ド・シャルトルという人物が次のような言葉を残しています。

 

「巨人の肩の上に乗っているから、遠くを見ることができる」

 

ゼロから豊かな人生を作り出すことは簡単なことではありません。

 

1人の人間の力で見える景色はたかがしれています。

 

そんなとき、巨人(歴史上や現代の偉人)の肩の上に立つ(知識や生き方、考え方を踏み台にする)ことで、今まで見たことのない新たな景色が見えてくるのだと思います。

 

ちなみに、「巨人の肩の上に立つ」という表現、どこかで見たことある人いませんか?

 

実はこれ、論文を検索するサイトであるGoogle Scholarに書いてあるんですよね(笑)

 

Googleもこのベルナールの言葉に共感しているのかもしれません。

 

以上、教養についてでした。

 

まとめると、

  • 教養は人生をワクワクするものにさせてくれるもの
  • アウトプットで知識を自分のものに
  • 知識に厚みを持たせる縦横思考
  • 「国語」ではなく「算数」で考える

 

です。

 

いつまでも、いくら経験を積んでも、新しいことを学ぶ姿勢だけは忘れないようにこれから過ごしていきたいです。

 

開設の詔

順序が完全に前後していますがブログ開設にあたって、なんでこういうことをしたいと思ったかについて書いていきます。

 

色んなことやってるからみんなに見てほしい、発信したい、そういう気持ちもゼロではないと思います。

 

でもそれより、生きていていろいろ感じたことを言語化することで、自分のなかでその経験や感動を深めて、その後の人生に生かしていきたいという気持ちが強いです。

 

生きていたらいっぱい知識などをインプットすることがありますし、新しいものの見方を発見することがあります。

 

そうやって得たものって自分のなかで完結してしまうと、実は自分のものになってないことが多い気がします。

 

自分の表面に一瞬くっついたけどちょっとしたらとれてしまうような感覚。

 

例えば本で読んですごいと思ったこととか、映画でいいと思ったこととか、人に説明しようとしたら全然伝えれない経験ありませんか?

 

たぶん読んだときとか見たときは感動してわかった気になっていたけど、自分のなかで咀嚼しきれていなくて、自分の言葉で説明しようとしてもうまくいかないという状態なのではないかと思います。

 

人間そんなに長い間物事を覚えていられない。

なら、気づいたときとか感動したときに文章にまとめておくことで、忘れないようにできる。

また、その過程で物事が頭のなかで整理され、自分のものになる。

 

さらに人に向けて発信するので、きちんと伝えるために、その物事について深く考えることができる。

 

このような思いから、ブログを始めようと思いました。

 

これまで自分のことについて書いてきましたが、もちろん発信するからには読んでいただいている人が楽しめるものとなってほしいです。

 

僕の気づきや感動が皆さんの人生を面白くするものとなることを願います。

 

ひがっさん

走る意味合いの変化~初マラソンを終えて~

こんにちは。

実は8月26日に北海道マラソン2018に出場しました!

 

もともとマラソン自体に興味はあったし、走るのは嫌いではなかったので(走るのが得意かどうかは別問題)、いつか走ってみたいと思っていたところ、大学の研究室の先輩に誘われたので出ることになりました。


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また投稿するかもしれませんがこの翌日から2日間は大学院の入試だったのでスーパー強行出場です(笑)

 

院試の前日にフルマラソンに出場する馬鹿が果たして全国にどのくらいいるでしょうか。

 

北海道マラソンの申込みが3月とかで、院試の日程が発表されたのが6月ぐらいだったのでここまで近いとは申込みの時点で想定してなかったのですが、

いや去年の日程とか見たらだいたいわかるやろ!って感じですね(笑)

 

スタートは、大通公園

スタート1分前からさっぽろテレビ塔にカウントダウンが表示されるのですが、僕のような初マラソンの一般ランナーはスタート位置がかなり後ろなので、カウントダウンは見れませんでした。

 

スタートの号砲が鳴ってから6分ほど遅れてようやくスタートラインへ。

大雑把に言えば持っているタイムが速い人ほど前でスタートできるので、何回も走っている人も初めはこうやって後ろからスタートしていたんだなと思って堪えます。

 

2万人が一斉に走るので最初は全然自分のペースで走れません。斜めにピュッピュッと動きながらどんどん抜かして、走るスペースを確保したいと思いましたがこの動きで体力は無駄に使ったかもしれません。

 

おじさんに脚がぶつかったとき、そのおじさんに手で押されました(笑)

すいませんって言ってるんだから押し返すのはどうかと…

 

また、これから走る人へのアドバイスですが、初めの給水(5km地点)では人が多く、初出場の人が多いゾーンで走っているとマナーが悪い人もちらほらいて、とても給水しづらいので、この辺までは小っちゃいペットボトルを持って行って自力で給水してもいいかもしれません。

 

そうこうしているうちに普段は車でしか通れないすすきのをパスする地下トンネルを通って、石山通~新川通りを北上します。

実はこれまでの練習で20kmより多く走ったことがなかったので(たぶんこれも無謀)、それ以上走ったら自分の体力は、脚はどうなるのかが未知数でした。

 

案の定、20kmを越えたぐらいから失速。体が重く感じて前に進まなくなりました。

 

「新川通りってこんなアップダウンあったんや」

新川通りは自転車で小樽や積丹に行くときに何度も通ってきましたが、どちらかというと快走路のイメージ。

しかし走ってみると、自転車では感じないようなアップダウンがじりじりと体力を奪っていきます。

しかも近くに元台風の低気圧があったので北西からの向かい風。かなり辛かったです。

 

そんな時、力になったのは沿道で応援してくれている方々

大きな大会ということもあり、沿道にはかなりの人が応援してくださっていました。

 

非公式で補給食やジュースを提供してくれる人、ハイタッチしてくれる人、高校の吹奏楽部の演奏。

どれも本当に心にしみました。

人の力、マンパワーを感じました。

 

体力を使うので、そういう声援にこたえるのを避けて道路の中央側を走っている人もいましたが、僕は体力を消費することを承知であえて沿道側を走り、ハイタッチしてくれる人がいたら積極的にハイタッチしに行きました。

 

なぜかハイタッチするとちょっとの間、疲れが吹っ飛びます。

めちゃくちゃ元気をもらいました。

会ったこともないし普段はほとんど会うことはないと思うのでこの場を借りて本当にありがとうございましたと言いたいです。

 

ペースはかなり落ちましたが30km、35kmと関門を突破し、35kmまで我慢しようと思ってポーチに忍ばせておいたゼリーを注入。

あとちょっとや。走り切ろう!

 

そんなさなか、ある思いが心に芽生えます。

走る意味についてです。

 

これまでは、走る意味について、健康のためだとか、

ちょっとかっこつけたいときは、努力すれば伸びるものが世の中にあることを実感するためとか思ってました。

 

でもマラソンを走っているときに実際に感じたのは、どれだけ辛くても、苦しくても足を止めたら終わりだということ

 

足を止めると筋肉が硬直し同じようには動けなくなるという体の問題だけでなく、精神的にも諦めのほうに気持ちが傾いてしまいます。

 

なので僕は、絶対に足を止めないでおこうと必死に動かし続けました。

 

これは人生においても言えることではないでしょうか。辛いことがあっても、苦しいことがあっても前に進む。

ラソンのようにゴールは決まっていないし、途中で方向は変わるかもしれないけど自分の中で進み続ける。

周りからは後退に見えても自分的には進めていたらそれでいい。

でも、絶対に歩みは止めない。

 

なんとなく、走る意味がわかったような気がしました。

それは、何があっても進み続けるという自分への宣言

意思表示です。

 

これからも、この気持ちを忘れずに突き進んでいきたいものです。

 

少々かっこつけすぎましたが、レースに戻りましょう。

 

40km付近で北大のキャンパス内を走ります。

「俺の庭や」

 

いつも北大のメインストリートでランニングしているので見慣れた景色です。

そして知り合いがいるかもしれないので下手に歩いたりしていたら恥ずかしいなという気持ちもあって、頑張りました。

今まででメインストリートをこんなに長く感じたのは初めてです(笑)

 

そして道庁を通り、ゴールの大通公園へ。

かなりきつかったですが最後はちょっと速く走れた気がします。

 

そして、ゴール!

記録は4時間33分でした。

 

とりあえず初めてで完走できてよかったです。

 

ゴール後、スタッフの人たちが列になってハイタッチしてくれて、感極まって泣いてしまいました。

応援がなければ、もし1人で走っていたらたぶん完走できなかったです。人間の温かさを感じました。

涙は完走記念タオルで拭きました(笑)


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撮る場所選びがテキトウ過ぎて自転車で行ったみたいになってますがちゃんと走りました。

そして汗で髪の毛がすごいことになってます(笑)

 

人生でトップレベルで疲れましたが、走る意味も感じれたし、完走できてうれしかったです。

 

まだ続けたいですね。