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選択することからは逃げられない「年をとることは可能性を捨てていくこと」(人生の教養が身につく名言集 出口治明 著) #読書録2

こんにちは。

 

今日も読書録を書いていきます。

 

今日も前回と同じく「人生の教養が身につく名言集」にて感じたことについてです。

 

ですが、今から書くことはこの本を読まなくても、人生の岐路に立った時に1度ぐらいは感じたことがある人は多いのではないでしょうか。

 

それは、人生は選択の連続だということ。

 

どこの会社に入るかとか、どこの高校に行くかとか、何の部活に入るかとか、そこそこ大きな選択から、

今日の晩御飯は何にするかとか、ジュースを買うかなどの比較的小さな選択まで、毎日何かしらの選択をしながら我々は生きているんですね。

 

生きている限り、すなわち過去から未来への時間の流れの中に身を置いている限り(置いていない方がいたら教えてください笑)、今ここで下した選択が反映された人生を生きていくということになります。

 

このように選択しなければいけないので、納得のいく結果が得られなかったとき、

 

「ああ、~だったら○○だったのに」「~れば○○だったはずだ」

 

このような感情に陥ってしまうことは人間誰でもたまにはありますよね。

 

僕は高校野球をやっていましたが、最後の夏の大会で、1-3で負けて引退となってしまった試合で、6回表にツーアウト1,2塁のチャンスで打席がまわってきて打てなかったことを未だに悔しがっています。

 

あれからもう4年以上経ちましたが、何度もその場面が脳裏に浮かんで、「打って点が入っていたバージョンの世界」なんかを想像してしまいます。

 

それほど執着があったことなので、思い出すのは当然かもしれませんし、悪いことではないと思うのですが、結局、いくら悔しがっても過去は変わりません。

 

AかBの選択肢があるときにAという選択をしたならば、Bを選択した場合の人生は存在しません。

 

「打って点が入っていたバージョンの世界」は「あり得ない世界」なのです。

 

シェイクスピアの「オセロー」の中にこんな一節があります。

 

「過ぎてかえらぬ不幸を悔やむのは、さらに不幸を招く近道だ」

 

この一節を用いて著者は、過去を悔やんだところで、気が滅入るだけだから貴重な時間が無駄になっていくと述べられています。

 

この意見にある程度共感はできるのですが、その悔しさをばねに変えられるのなら、必ずしも後悔が不幸を招くとは限らないのではないのでしょうか。

 

僕は先ほどの高校球児時代の経験は、「ここで打つにはまだ気持ちや努力が足りていない。お前はまだまだやれる」という神様からのメッセージだと思うようにしています。

 

後悔するのはいいと思います。重要なのはウジウジ後悔しないこと。

 

後悔をプラスに変えることができれば、失敗が「大事な経験」へと変わります。

 

これからの人生でやり返してやろう。

この高校最後の試合のシーンが頭に浮かぶたびに思うことです。

 

 もう一つ、人生を生きていくうえで忘れてはいけないと思うのは、選ぶ選択肢があれば、捨てる選択肢もあるということ。

 

大学に入ると、時間もありますし、可能性が無限大のような気がして(もちろん無限大なのですけど)、「あれもできる、これもできる」という感覚でした。

 

しかし、大きな夢を見て何かを始めようとしても、うまくいかないことが多々あります。

 

僕は1年ほど前に漠然とプログラミングができたらいいなと思って始めようとしましたが、あまり続きませんでした。

 

続かなかった理由は単純です。目標があいまいなこと

 

目標があいまいだと、今日どのくらいやればいいかや今週何をすればいいかがわからず、さらにどこに向かっているのかがわからないので、どれだけプログラミングを上達させたい気持ちがあってもなんとなく手につきません。

 

そのような思いつきでやることは一瞬で冷めてしまいます。

 

僕の話ばかりですがスペイン語にしてもそうです(笑)

 

僕はサッカーが好きなのでスペインに行ってみたい気持ちがあるのと、南米の自然を見てみたいので漠然と、そこで話されているスペイン語を勉強したいという気持ちがあるのですが、今のところ「行く」という確固たる予定がないので日本で普通に生活している限り全然勉強は捗りません。

 

やっぱり、必要性にかられないと人はそう簡単には動けないのかもしれません。

 

もうさっさと南米行きのチケットを取ってしまったほうが絶対勉強しますね(笑)

 

今は、プログラミングというほどではありませんが、研究で統計解析やゲノムの解析を自分の手で行いたいという目標があるので、そのためにはまずどういったことを覚えないといけないのか、できる人と比べて自分に足りていないものは何かという風に、目標とそれをつなぐ過程のようなものが見えてきています。

 

その過程のなかにもおそらく小さな目標がたくさんあります。

「このコードは今一番やりたい遺伝子ネットワークの解析に必要だからまず覚えよう」とかです。

 

そういった小さな目標を達成することの積み重ねが、統計解析やゲノム解析を自分の手で行うという大きな目標へとつながっていくのだと思います。

 

タイトルや途中にも書きましたが、何かを選ぶときには必ず「捨てる」選択肢もあります。

 

あれもこれもは選んでいられないのです。

 

ではどうやってたくさんある「やりたいこと」のなかからやるべきことを見出せるか。

 

僕は、目標と過程が見えていることを優先すべきではないかと思います。

 

やりたいことは僕も正直たくさんあります。

自転車旅、海外旅行、スポーツ観戦、登山、ランニング、料理、英会話、スペイン語、読書、カメラ、ブログ、映画鑑賞、筋トレ、研究、プログラミングなどなど。。。

 

これらをすべて全力でやり切ることができるでしょうか。

 

おそろくできません。

すべてに「手をつける」ことはできると思いますが、それではほとんど何も身につきません。

 

すべてが中途半端となっては何も前に進まないのです。

 

もしそれで他の人より抜きん出たいと思っているのであれば、「手をつけた」程度の人は世界にごまんといるので、能力としてはたいしたものにはなりません。

 

10個に10の力を注力していたら1個に1の力しか捧げることができませんが、その力を選んだ2個に注力すれば1個につき5の力を捧げることができます。

 

という風にやることをしぼっていき、その選んだものを一つ一つ洗練したいものです。

 

他は趣味程度に気分転換としてやれたらいいですね。

 

目標と過程が見えるには、そのことについて深く考えなければいけません。

 

深く考えるのは、そのことが自分にとって重要だと感じているということです。

 

重要だと感じているということは、人生において大きなウエイトを占めている、そのことが好きだ、一生かけてもやっていきたい、そういう存在であるということです。

 

そこまで好きなことなら、もうすでに目標などを決めていることでしょう。

 

逆に、そこまでの熱がないものは、捨てる。

やるとしても気分転換程度にやったほうがいいということだと思います。

 

タイトルで、年をとることは可能性を捨てていくことだと書きましたが、逆に言えば、

情熱を向けることができる、深く考えられることに絞っていくことと言えるのかもしれません

 

年をとると自分の力で生きていかなければなりません(周りに助けてもらうのもその人の力として)。

 

そこで、何の能力で生きていくか。

 

それを考えるうえで、無駄なものは捨てていき、いくつかの情熱をもてるものに集中し、それらを研ぎ澄ましていけたらいいですね。

 

情熱とかについてまた書けたらなあ、と思います。

 

今回はこのへんで。