オオブログ!

答えのないことを考えるのが好きな大学院生のブログ。

Discomfort is the feeling of learning ミネソタの歩き方019

いらついた。

「教えて」とも言ってもないことを、教えようとお節介を焼いてくる、アメリカで同じ研究室に所属しているパキスタン人にだ。

 

例えば僕が、とある冷凍された試薬が溶けるのを待つために放置していたら、「もう溶けたんじゃない?」とわざわざ言ってくる。

正直、なめてんのか?、そのために時間まで計って溶かしている俺が忘れるとでも思ってんのか?と思ってしまう。

 

もうプロセスはわかった上で実験していて、僕のほうが詳しいのに、あれやこれやと想像で口をはさんでくるのだ。

そして毎日、僕が何かをしていたら、何の実験をしているか、たとえデスクワークをしていても何をしているかを聞いてくる。

 

デスクワークなんて、見れば「コンピュータ関連の何か」であることは一目瞭然なのだが、わざわざ知ろうとしてくる。

ちなみに僕にだけではない。そこにいる人みんなに聞いて回っている。

 

逆に、僕に実験のことで質問してきて、「それはやったことないからわからない」と答えても、自身が想像で言うからなのか、僕に対しても何かしらの回答を求めてくる。

最終的にI said I don't know!(わからんって言ってるやろ!)と強めに言って終わらせてしまった。

 

挙句の果てに、僕が先に実験が終わったから帰ろうと思ったら、「(僕が)先に終わることを知っていたら、今やっている実験を始めなかったのに」とか言ってくる始末だ。

 

これぞMind your business!って感じだ。

 

僕はインドには行ったことがないが、インドに行った人からは、インド人は厚かましい、胡散臭いなどの話を聞く。ひょっとすると隣国のパキスタンでもそういう傾向があるのかもしれない。

 

ああ、これも思い出した。

冬休み期間は、大学の循環バスが18時までということを、僕がネットで調べた上で、「もう研究室を出ないと間に合わない」と言っているのに、

「いつもは夜遅くまで動いてるから大丈夫」とか言ってきて、

 

だから、こっちも普段は夜遅くまでやってることぐらい知ってて、その上で冬休み期間のことを調べて言っているのである。

調べもせずに、僕が言葉にせずとも一回通った思考回路の途中の部分を、改めて指摘してくるのでむかつく笑

 

おそらく日本人は、「空気を読む」、すなわち文脈を推測する習慣があるから、いつもバスを利用している僕がわざわざ「もうバスがない」と言っているってことは、今日は何か特別な状況なのだな(しかも冬休み期間だから)ということはなんとなくわかると思う。

 

しかし、パキスタン人を例に出して申し訳ないが、より直接的にものを言う海外では、ちゃんと言わないと伝わらないのだろうなということを、身を持って感じた。

※日本vs海外で「行間を読む」系の話はキリがないのでこの辺にしておく。(以前に関連する記事も書いたのでもしよければ読んでください→(「サービスが行き届いた国」はある程度の同調圧力によって成り立つ ミネソタの歩き方017 - オオブログ!

 

 

そして今日、僕自身も、実験の忙しさと海外で感じている種々のストレスがつのってしまっていたのだろう。

そのパキスタン人がいつものようにお節介にも「弁当を持って来たから、ちょっと食べていいよ」と言ってきたのだが、

「いや、いらんいらん」って感じで雑に答えてしまった。

 

笑っていたが、少し悲しそうな目をしていた。

これは流石に、厚意を台無しにした僕が悪いなと反省した。

バックパック中とかならまた違ったのかもしれないが。

僕もまだまだ未熟だ。

 

違う日のこと。

同じ研究室の中国人と、例のパキスタン人が毎日僕たちが何をやっているか聞いてくることについて話題になった。

 

そこで、やっぱり心理的境界が違うよね、という話になった。

 

日本人や中国人、おそらくアメリカ人やヨーロッパ人もそうだが、我々は無意識に他人との境界を作っている。

 

他人のことは自分には関係のないことという概念が浸透している。

漁業で言う、排他的経済水域みたいなものだ。

必要じゃない限り、わざわざ他人が何をやっているか気にしないし、察せることは言わなかったりする。

 

しかしそのパキスタン人の排他的経済水域は小さい。

自分の水域が小さいから他人の水域も小さいと思ってガンガン入ってくるということが、心理的に起きているのではないかという見解になった。

 

だがなんだろうか。

 

これはおそらく日本人やその他のいわゆる先進国で、人と人とのつながりが希薄になった社会に生きる我々が、とうに忘れ去ってしまった「自他の境界がない」という感覚だと思う。

 

お節介な彼らにとって、他人の運命は自分の運命でもある。

というかもはや我々が無意識にやっている他人とか自分という区別をあまりしていないのかもしれない。

 

僕たちは他人の時間を使ってしまうと申し訳なく感じる習性があるが、パキスタン人がそこにルーズなのも、自分の時間でもあると思っているからだろう。

 

運命を共有しているから、僕の実験中に、あれやこれやと色々指摘してきて、頑張って役に立とうとしてくれるのではないか。

毎日みんなが何をやっているか把握しようとしているのではないか。

弁当をわけようとしてくるのではないか。

一緒に帰ろうとしてくるのではないか。

 

そういえば、小中高では、学校や部活が終わるタイミングが同じということもあるが、友達と一緒に帰っていたことを思い出した。

 

もう大学の研究室にもなると、わざわざ人と帰るタイミングを合わせていない。

研究室は研究のための場所であり、基本的にプライベートとは切り離して考えているからだと思う。

 

その結果、煩わしい人間関係もないが、温かい人間関係もない。

 

日本の都市部での孤独感の理由は、パキスタン人のウザさが教えてくれる。

 

インドに行った人は、インド人のウザさが恋しいという人がいる。

そういえば北海道の田舎でも、食べれないって言ってるのにめっちゃ野菜をくれる農家さんがいる。

大阪の祖母も、僕が来ると何時だろうが、食後だろうが否応なくピザを2枚注文する。

 

もう僕が生きている間には、日本全体がそんなウザくて温かい社会になることはないのかもしれないなという儚さを少しばかり感じながら。

 

アメリカ滞在記まとめ↓

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映画「ドライブ・マイ・カー」で印象に残ったセリフ

どうもです。

 

これから、ドライブ・マイ・カーで出てくるあるセリフと、そのセリフが出た背景について超簡単に書くので、それをネタバレと捉えるなら読まないでほしい。

 

※ネタバレ注意

超簡単に言うと、とある夫婦がいて、主人公(夫)が家を出た後に予定が変わって早く家に帰ってきた時に、妻の浮気現場を目撃してしまう。

しかし、主人公はそれ以降、妻に何も言わず(目撃したことも伝えず)、平静を装って生きていく。

その後、妻は急死してしまう。

しばらくして、色んな人に刺激を受けた後に主人公が言うセリフが、

 

「僕は正しく傷つくべきだった」

 

だ。

つまり、自分の気持ちに蓋をせず、妻にきちんと自分の怒りを伝え、問題と向き合うべきだったということだ。

 

この言葉が一番、今の自分に響いた。

 

なぜかと言うと、浮気の話どうこうではなく、「違和感を持っているのに平静を装ってしまうこと」が結構あるからだ。

誰でも少しは見られる症状ではないだろうか。

 

目上の人や、同期でもリーダー格の人がいれば、その人のプライドや場の流れを優先して、違和感を感じても平和に受け流したり、

辛い経験があっても周りに悟られないように気丈に振る舞ってしまう人は、程度の差はあれど、いるのではなかろうか。

 

自分はどちらかというと、周りを気にして気丈に振る舞っているというよりは、「落ち込んでる時間が自分にとって無駄に感じるから」気丈に振る舞ってしまうところがある。

 

ミスしたことをすぐに切り替えないと後の結果に影響してしまう、スポーツをやっていた経験も大きいのかもしれない。

 

そのメンタリティは当時のスポーツや、今では実験において役立っているとは思う。

 

ただそのことが、自分の気持ちに正直になるという問題・ストレスを感じているのに感じないようにしている(かも?)問題の、根本的な解決から本人を遠ざけているのではないかと感じた。

 

辛い経験をした後にすぐに気丈に振る舞うことは一見、強くも見えるが、わだかまりを抱えたまま生きていかないといけない。問題を直視できていないという意味では弱いのかもしれない。

 

それなら泣いたり怒鳴ったりして、人に迷惑をかけてでもうまく感情を表現したほうが、弱そうに見えて、問題に向き合えている可能性がある。

 

そしてもう一つ、これは「嫉妬」に対しても言えると思う。

 

「あいつは天才だから」「僕は能力がないから」と言うことで、比較するのをやめて正直に「嫉妬をせず」平静を装ってしまうことが、多かれ少なかれある。

 

潔くてクールで悟っているようにも見えるし、ゆるく生きていくことが最近のトレンドにもなっている気がする。

 

しかし、それはある意味で、「頑張ったら勝てるかもしれないけど、頑張って勝てなかった時が怖いから、頑張らない」ことの、言い訳に使ってしまってはないだろうか。

 

もちろん、大谷翔平に今さら嫉妬しようとは到底思えないけど、

かなり近い人に対しても、「あの人は凄い」の一言で終わらせてしまったり、周りがそう言うと、流されてしまうことがある。

 

今度から、違うと思ったら「いや、俺は勝ちたい」ってちゃんと言おう。言わずに心の中で思うだけでもいいけど。

 

誰かと比較せずに、気楽に生きていく・ゆるく生きていくと思うことが、人生を豊かにすることは絶対あるし、たまにはそう考えないときつい。

 

しかしそれが原因で、やりたいことがわからなくなってしまうのはもったいない。

 

人と比較しない(「あの人は凄いから」の一言で片付ける)のは、プライドが低いように見えて、「本気でやれば勝てるかもしれない状態を保っている」ということとも取れるから、逆にプライドが高い人がやる行動なのかもしれない。

 

嫉妬しないことを諦めに使うぐらいなら、ちゃんと嫉妬している自分に向き合って、正々堂々努力する自分でいたい。

 

「僕は正しく傷つく」

 

ではまた!

 

PS

うちの彼女は、わりと毎回ちゃんと傷つく時は傷つくし、違和感を持ったら言うタイプらしく、上記の言葉はあまり響かなかったらしい。

 

※ここからネタバレ注意

それよりも、女性ドライバーが、主人公の車を運転する前に、ドライバーをつけることを渋っている主人公を見て、「私が女性だからですか?」と言ったのが響いたそう。

 

僕的にはドライバーが女性だとわかる前から主人公はドライバーをつけることを渋っていたから、男女は関係ないと思っていたけど、観る人がふだん置かれている環境(補足:彼女は日系大手企業で働いている)によっても、感じ方が変わるのだと思った。

 

※ここから思い出話

今思い出したが、中学の時、社会のテストで絶対フビライハンが正解のところを、先生がチンギスハンが正解として採点していた。

当時の社会の教科書は、たしか地理公民と歴史で2冊に分かれていて、その時期の授業では地理公民をやっていて、テスト範囲は歴史というトリッキーな時期だった。

僕を含めみんなフビライハンについて載っている歴史の教科書は家に置いていた時の出来事だったので、その場で採点の間違いを証明できなかった。

みんなそんなに勉強するような中学じゃなかったから、自信を持って間違いに気づいているのはクラスで僕だけで、強くも出れなかった。

 

家に帰り、歴史の教科書を明日持って行って先生に抗議しに行こうと思っていることを母に話した時、

「もう、あんたやめとき」

と言われた。

一日経ってから間違いだったことがわかると、テストをもう一度回収して採点し直す手間がかかるし、先生のメンツにも関わる。

先生も人間だし、今思うと、母は僕が先生に目をつけられるのを避けてくれたのだと思う。母なりの正義があった。

 

悔しかったが、初めて空気に流されて、違和感(というか間違い)をスルーしてしまった瞬間だった。

あの時は、大人になるとはこういうことなのかもしれないと思ったけど、色々経験した今考えると、そんなのは大人でもなんでもない。

14歳か15歳なんだし、もっとダルい生徒になって、荒らしてもよかったのかもなと思う。

 

中学の時は考えが未熟でスルーしてしまったが、研究の世界では間違いをスルーしていては研究者失格なので、研究人生では絶対にないようにする。

 

では本当に、また今度!

「サービスが行き届いた国」はある程度の同調圧力によって成り立つ ミネソタの歩き方017

アメリカ・ミネソタ州に滞在して、4か月以上が経過した。

 

以前の記事で、日本とは少し違ったアメリカの国民性に触れた(アメリカ人は温かくもあり、冷たくもある ミネソタの歩き方003 - オオブログ!

 

あの記事から少し間を置いて、自分の考えをより言語化できてきた気がするので、ここにまとめておきたい。

 

日本よりも、アメリカのほうが街中における知らない人との会話はある。

そういった会話によって何でもない日常が盛り上がるし、一見それは温かくも感じる。

 

しかし彼らには、日本で感じられるような「親切さ」はない。

 

先日グランドキャニオンに行くためにラスベガスに5泊していたが、ホテルでホテル内にあるカフェの電子レンジを1分ぐらい使いたいだけなのに貸してくれなかったり、電子レンジ貸出しは1晩15ドルとか言われたり(結局使わなかったけど)、朝4時半ぐらいに出発するからチェックアウトの支払いを前日にさせてほしいと言っても融通が利かなかったりと、

ホテルのようなサービス業でも「おもてなし」ではなく、あくまで「仕事」との捉え方が大きいのではないかと思う。

お願いを言うと、些細なことでも追加で料金を取ろうとしてくる。

 

一方で、日本のホテルだったら、そもそも共用の電子レンジがあることもあり、気が利いている。

そういえば以前、集中管理の冷房しかなく「部屋が寒い」と電話したら電気ヒーターを貸してくれたこともあった。

日本のホテルには客が困っていたら可能な限りのおもてなしをするという精神が備わっているのではないかと思う。

 

そしてこれは国民性とは別問題だがホテルの価格帯も日本のほうが断然安い。料金当たりのサービスで考えると、日本は圧倒的にサービスが良いということになる。

 

もう言い古されていることだが、世界の中では珍しく、日本では電車が1,2分遅れただけで車掌は謝るし、落とし物は交番に届けられる。

 

なぜ日本人はこんなにも、与えられた役割以上の仕事を追加の報酬もなく、やることができ、アメリカ人はできないのか。

 

ここまで日本をポジティブに、アメリカをネガティブに書いたが、本当にそうだろうか。

 

例えば、仕事に対してきちんと報酬をもらわず、それを曖昧にする習慣があるから、日本でサービス残業のような問題が生まれてしまうのではないか。

 

今回は、この日本人の良すぎるサービス精神の1つの要因として、空気を読む文化a.k.a.同調圧力」を挙げたいと思う。

 

なぜ同調圧力を挙げたかというと、アメリカにおけるこの時期の人々のマスクのつけ方に他人に同調する姿勢を全く感じず、多様な考え方を尊重する姿勢を感じたからだ。

 

アメリカにあるのは、マスクを「してもしなくてもいい」という風潮だ。

日本にいると、MLBの観客席の映像などを見て、アメリカ人全員がマスクをしていないようなイメージがあるかもしれないが、そんなことはない。

 

実は、街にはしている人もしていない人もいる。2:8か1:9ぐらいの割合だろうか。

ただ、していない人を煙たがったり、している人に対して、そこまで警戒する?と嘲笑うようなこともない。

 

なぜかというと、おそらく他人にそこまで興味がない。人が何をやっているかなんてほとんど気にしていないのだ。

 

これは人種のサラダボウルと呼ばれるほどの多民族国家が生み出した風潮なのかもしれない。

宗教も食文化もいろいろ多様なので、他人がしていることをいちいち気にしていたら途方に暮れてしまうだろう。

 

こんなことを言いながらも、僕はアメリカのなかでは日本人すぎて、周りがマスクをしているとプレッシャーを感じてマスクをしようとしてしまう。

例えば、僕がマスクをしていないときに、マスクをしている人が話しかけてくると、「ああ、僕もしないと」と焦りを感じてしまうのである。

 

また、僕の母が家のなかでもマスクをしたり、父とソーシャルディスタンスを取っていると聞いて、そこまで警戒しなくていいだろと言ってしまった。

警戒するべきレベルに正解などないのに、あたかも周りがしているレベルのことが正解かのように、母の考えに対して干渉してしまっている自分に気づいたのだ。

 

このように(僕一人の例を日本代表のように使ってしまうのもよくないが)、知らず知らずのうちに、日本人の個人には、周りがしていることと同じぐらいのことをすべきだというバイアスがかかっていると感じる。

 

また裏を返せば、集団から個人に対する要求として、「言っていなくてもこの程度はやってくれよ」という圧力をかけてしまう文化なのだと思う。

慣れ過ぎて当事者がそれを圧力と捉えていないことがほとんどだが。

 

日本ではおそらくそういった文化も引き金の1つとなり、コロナ禍でも高い衛生基準を保つことができ、致死率が高いとされる高齢者人口が多いのにも関わらず、世界のなかでは驚くほどに新型コロナウイルスによる死者を増やさなかった。

 

全体のためなら個人レベルの煩わしさを我慢することができる。自己犠牲の精神は誇るべき国民性だと思う。

 

しかし、それと同時に、この同調圧力がもたらすのは「自分の意思で行動する」ことの制限ではないか。

 

アメリカにいる、マスクをしている人としていない人は、それぞれ自分の考えがあってマスクをするかしないかを決めていると思う。

 

何か情報を得たのか、高齢者とよく触れ合う環境にいるのかわからないが、個人の意思で行動を決めていると感じる。

 

一方で、日本人はほぼ全員マスクをしているが(5月からアメリカにいるので違ってたらすいません)、

オオブログ調べによると、オミクロン株流行期の60歳未満の新型コロナウイルスによる重症化率・致死率ともに、季節性インフルエンザと変わらないということのようだ。

(参考:https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000964409.pdf)

(※重症の定義がコロナとインフルで違うこと、および未受診は換算されていないことには注意が必要)

 

60歳以上は重症化率・致死率ともに高いので、引き続き警戒は必要だと思う。

 

しかし、自身が60歳未満かつ、日常生活で60歳以上の人と触れ合わない人に関しては、インフルエンザと同じぐらいの警戒度でいいのではないかとも捉えられる。

コロナ以前、インフルエンザが流行する時期にマスクをしていなかったのであれば、今マスクをする絶対的な理由はないのではないか。

 

僕はこのデータによって、マスクを取れと言いたいわけではない。

周りに合わせるのではなく、自分で情報を掴み取り、自分で判断するべきではないかと言いたいのだ。

その結果として、マスクをつけるならそれで全然いいと思う。

政府や、自分が給料をもらっている企業などからルールが示されている場合は、従うのが理にかなっていると思うので、そういった理由でつけているのであれば良い。

 

僕が間違っている可能性も少なからずあるので、最新情報は常に確認していただきたい。

ただ空気に従ってマスクをつける風潮はやめていけたらいいなと感じる。

 

サービス精神の話に戻ろう。

日本の同調圧力が、コロナ禍における高度なマナーを作り上げてきたと述べた。

 

そしてこの圧力のおかげで、日常での高度なサービス精神も培われていると思う。

 

上司か客あるいは同僚からかはわからないが「これぐらいはやってくれるよね?」という圧力、そして周りのレベルに合わせて当然、違うことをしてはいけないという個人の認識がどんどんより良いサービスを形成していった。

 

そのおかげで、安くて早くて美味しい国ができたと思う。

 

アメリカの道路工事は、コメディーかと思うぐらい何か月もやっている。

しかも面白いのが、「毎日何かは、やっている」のに、何か月もかかっているところだ。

 

おそらく与えられた給料が同じなら、どれだけ頑張っても同じだと思っているので、ゆっくりゆっくりやっているのだと思う。

そして、道路を封鎖しているくせに、恥ずかしげも申し訳なさもなく毎日やっている。彼らには周りからの圧力は(ほぼ)ない。

 

また、僕の住んでいるアパートメント(日本で言うところのマンション)では、18階建てでエレベーターが2つあるが、最近1つ調子が悪くなってしまった。

アパート管理者からのメールによると、修理に数か月かかるらしい。

 

日本のエレベーターで工事のせいで数か月動いていないものは見たことがない。数か月もあれば新しいエレベーターを作れるぐらいだと思う。

 

それは、日本人はおそらく同じ給料でも、全力を尽くしたり、そもそもの納期の設定を最短にする努力をしているからだ。

 

アメリカなら施工期間を短くしてほしければ追加料金を取るのだろう。

 

僕は日本的なサービス精神のほうが好きだ。

根源には空気を読んで周りを気にしてなどという同調圧力があるのかもしれないが、お金で動いていないぶん、親切さや温かみを感じる。

 

しかし、良い仕事を正当に評価するという観点では、もっと日本のようなサービスにはお金を払うべきなのかもしれない。

 

「サービスが良い」ということは裏返すと、お金を払っている以上に人が働いているということだ。つまり釣り合っていない。頑張っている人が十分な対価をもらわずに頑張っていることになる。

 

労働者も家に帰れば消費者だから、これが経済が上向かない理由の1つにもなるのかもしれない(※あくまで想像です)。

 

まあ経済を上向かせなくても幸せを感じられるならいいと思うし、アメリカ的な殺伐とした感じにもなってほしくはない。

 

資本主義社会のど真ん中アメリカでそのようなことを感じた、25歳最後の月だ。

 

ではまた!

 

アメリカ滞在記↓

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異性にマウントを取らせてできた居場所に満足するな(82年生まれ、キム・ジヨン チョ・ナムジュ著)#読書録4

先日、大学院の後輩の女の子が薦めてきたとある本を読んだ。

 

書名は「82年生まれ、キム・ジヨン

 

数年前に韓国で話題となった本である。

 

自分が読む前から知り合いが何人か既に読んでいたので、少し内容は聞いていた。

 

主に男女平等に関する問題についてらしい。

読まずともだいたい内容が想像ついた(つもりだった)ので、最初はあまり読む気になれなかった。

 

自分は個人としては男女のことをフラットに考えていた自信があったので、個人レベルでは男女は平等だったし、

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新参者には厳しいアフターコロナの働き方【どの業界にも言える】ミネソタの歩き方013

5月末にミネソタに留学しに来た。

 

そのころにはアメリカで所属している研究室もリモート推奨で、実験をする必要がある人だけ研究室に来るようになっていた。

 

僕は約8か月の滞在しかなく、その間に結果を出したいから、ガンガン実験をしないといけない。

 

しかし、もともと5人ぐらいしかいない小さな研究室でもあるが、ボスを含めみんなリモートワークしており、僕以外の人は週2ぐらいしか研究室にいない。

 

実験には、試薬やチューブなどの実験器具が必要だが、研究室に慣れていない新参者はそれらがどこにあるのかがわかっていない。

 

その都度、Slackやメールで聞き、たまに数時間返ってこないこともあり、非常に効率が悪い。

 

他のメンバーは、リモートワークにより通勤時間がなくなり効率が良くなったのかもしれないが、

実験して結果を出したい新参者にとっては、他のメンバーのリモートワークは非効率だ。

 

僕はまだ会社で働いたことはないが、これに近いことは全国のコロナ禍で入社した新入社員が感じていることではないだろうか。

 

出社している人としていない人がいることで、対面だったら今日中にできたことが翌日以降になってしまったり、

また、対面で何かをしたいときは、コロナ以前は言う必要がなかった「明日来てください」を言わなければならない。本来は頼むことではなかったのに無駄に頼みごとが増えてしまう。

 

技術の発展が進めば、VRを使うのかホログラムを使うのか何かわからないが、勤務時間中は家とオフィスが常時ビデオなどでつながっていて、対面に近い状態になるのかもしれないが(それはそれで気持ち悪いけど)。

 

技術が発展しない間は、コロナ後になっても、完全リモートではできない職業(例えば研究職)は、メンバー全員で対面する日は週何回かは作ってほしいものである。

 

ではまた。

 

アメリカ留学シリーズ↓

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デッサンで心を整える【絵画と統計学のアナロジー】

こんにちは。

 

現在、絶賛アメリカ滞在中なのだが、土曜日に天気が悪かったので、家にこもっていた。

 

なので今回はアメリカには関係ない投稿だ。

 

突然だが、これは僕が絵を描くことが好きだからかもしれないが、たまに絵を描きたくなる時はないだろうか。

 

さいころポケモンを描いたりして、上手くはなくても祖母に褒められたりしたのが良かったのかもしれない。

ここで否定されていたら嫌いになっていたかもしれないので、グラードンを描いたあのとき褒めてくれた祖母には感謝したい。

 

小学校のクラブ活動で漫画部?的なものにも一瞬入っていたし、自分で作ったキャラクターをノートに書いたりしていた。中学校の環境啓発ポスターで(田舎ながら市内で)入選した気がする。

 

子ども時代のほうが、今よりもクリエイティブだったかもしれない笑

大人になるにつれ、損か得かで判断してしまうことが増え、意味もなく熱中して絵を描くことはどんどんなくなっていった。

 

さらにその後、野球など、だんだん他の事にハマってしまったこともあり、本格的に美術系のことは何もしらないまま生きてきたのだが、友人の勧めで読んだ「ブルーピリオド」で、芸大生のように、美術を本格的に突き詰めていく人がいることを知った。

 

大学4年の卒論前に追い込まれている頃、家に帰ってビールの缶や腕時計の絵を描いていた。その時間は卒論のことを忘れて没頭して楽しかった記憶がある。一種の現実逃避だと思う。

 

だが、忙しい度合いが平常時に戻ると、そのこともすっかり忘れ、また絵画をしなくなった。

 

職業じゃないなら、絵画は暇なときにしそうなイメージだが、僕は忙しい時にやってしまうのかもしれない。

 

無事に卒業して、大学院に入学し、たまたま環境問題に興味を持ち、いまは博士課程の学生として土壌の研究をしているが、

 

本などで勉強しているうちに、環境問題には資本主義などの経済システムが関わっていて、経済システムの形成には宗教観も関わっていた可能性が示唆されていて、時代ごとの宗教観はその時代の美術が表していて、ということがわかり、

 

「え、美術って意外に重要やん」

 

と感じていた。

 

そんな時にノリで西洋美術史の本を買ったがまだ読めていない笑(日本に置いてきてしまった)。

 

そして昨日、たまたまquizknockの美術の動画を見て、急に絵画欲が再燃した。

 

卒論前に絵を描いた時もそうだが、いつも罫線付きノートしかない。

脱線するが、罫線を「けいせん」と読むことを、このブログを書いていて初めて知った。自分で読んだことも打ったこともなかった言葉だった。

 

 

描いたのは白いマグカップだ。

 

ビール缶を描いたときと似ていたが、ビール缶と違うところは取っ手があるところだ。

 

流線型の取っ手の光と影を表すのがめちゃくちゃ難しかった。

 

ここであることに気づく。

 

線のないとことろに線を引くと、本物とは違って見えるということだ。

 

どういうことかというと、流線型のマグカップに、本来は明確な線など存在しない。

飲み口ですらとがっているわけではなく、丸みを帯びている。

 

線を引くのは楽だ。簡易的には、対象の輪郭が取れ、漫画的にはマグカップとわかる絵ができるからだ。しかし、それは近づいているだけで、本物には到達できない。

 

この感情が芽生えた時、ピンときた。

 

これって、統計学と似ていないか、と

 

統計学でも、グラフ上のバラバラの全ての点に、できるだけ近い線を引いて、それらの点を表現する式(モデル)を当てはめることがある。

 

最小二乗法を知っている人はそれをイメージしてもらえるとよい。

 

でもそれは、近似なだけで本来は存在しない線なのだ。

 

線が存在しないところに線を引くと、本物(真の値)からはズレる。

 

線があると、他の値も推測できたり、情報を送る手段としてはとても効率がいい。しかし、それはあくまで予測された値でしかないということには、常々、注意しておかなくてはならない。

 

まさか絵を描きながら統計の考え方とのアナロジー(類似性)を感じるとは思わなかった。

 

デッサンの何がいいか。

 

それは、心を無にしないと描けないところだと思う。

 

「ここはこうなっているはずだ」と思って筆を入れても、それは大方の場合、違っていて、変な絵になる。

 

心を無にして、素直に、見たまんまの角度に筆を入れていく作業が必要になるのだ。

 

そのうち、先ほど述べた統計とのアナロジーのような、普段は思いつかなかったアイデアがピンと脳裏に思い浮かぶことがある。

 

この快感は、雑念を捨てて絵を描いたことがある人にしかわからないと思う。

 

線のないところに線を引くと、簡易的には本物に近づくが、本物ではない

 

絵や統計だけでなく、国境や人種、色んなことに言えるかもしれない。

 

ではまた!

 

アメリカ滞在記のまとめページはこちら↓

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実効支配

他の研究室とウォークインの冷凍庫を共有している。

 

きちんとした境界線が決まっているわけではないので、土や植物など扱うサンプルが大きい、僕たちの研究室がじわじわと領土を広げてしまっていた。

 

使われてないスペースがあったら、何かの置き場所に困った時、そこを使ってしまう。

 

そうこうしているうちに、常にそこに物を置くようになり、物が置かれている状態が普通になり、違和感を感じなくなってしまう。

 

「そちらが使わないなら使わせてもらいますよ?」と、実効支配してしまうのだ。

 

日本がボーっとしてる間にその土地を実効支配した他国の気持ちが少しわかった気がした(色んな人に怒られそう)。

 

てか、領土って誰が決めてん。

 

よい1日を。