オオブログ!

答えのないことを考えるのが好きな大学院生のブログ。

大勢の一員になると人は冷たくなるよね

歩行者の多いところだと、よく歩車分離式の交差点がある。

 

そこでたまに車の左折や右折の途中で信号が変わってしまい、交差点の真ん中に車が置き去りになっていることがある。

 

個人的には、信号が変わっても、歩行者が2、3秒歩き始めるのを待てば、車は無事に交差点から出れると思うのだが、

 

信号が変わった途端にその車が見えていないかのように歩き出す人々のせいで、ほぼ確実に置き去りにされている。

 

あれってすごく冷たいなと思う。

 

かと言って、僕一人だけ止まってても、他の人が歩き出すのでどうしようもない。声を上げて人が歩き出すのを制止する勇気もない。もどかしい感情を抱いている。

 

しょせん僕もサイレントマジョリティーの一人なんだと思いながら、置き去りにされている車を横目に今日も信号を渡っていた。

 

信号を渡る歩行者が、2、3人だったらどうだろう?

 

信号が変わっても、誰かが「どうぞ」とジェスチャーして、車を先に行かせてあげるのではないだろうか。

 

人数が多くなると、どうしても責任の所在が曖昧になり、罪の意識が薄れ(この場合の車の信号無視を罪というのはややこしいからやめてね笑)、個人個人が持っているはずの思いやりの感情が、ほぼないもののようになってしまう。

 

信号は大発明だと思うが、信号というルールが、人が人を思いやらないことも時には正当化してしまう。

 

研究で行ったケニアでは、都市部以外、信号はなかったけど、他の車が曲がる意思を見せていたり、歩行者がいたら、お互いに譲り合って成り立っていた。

 

そのせいで毎朝、大渋滞だったけど笑

 

そういった交通整理という信号のメリットを考えると、歩車分離式の交差点で1台の車が置き去りにされるくらいどうってことはないのかもしれない。

 

だが、本当に私たち歩行者は2、3秒も待てないのだろうか?みんなウンコを漏らしそうなのか?

 

少し話は変わるが、ウチの研究室には、使った物をもとに戻せない人や、補充できない人が一定数いる。

 

気づいた人が戻したり、補充しているから、またいつもの場所で、いつも通り使うことができているのだが、

物を戻さない人からすれば、いつも通り使えているのでその行為には気づいていない。

 

気づいた人がブチギレない限りこの問題は一向に解決しない。

 

また、実験で使う超純水の入ったボトルが数本、違う場所に置かれていて、1本空けたらそれを補充しないといけないという暗黙のルール(暗黙なのもよくない)があるのだが、数十ミリだけ残して他のボトルを使う、すなわち「自分は使い切っていないから補充しない」という悪党が存在する。

 

そうしてみんな使い切るのを避け、数本とも数十ミリ入った状態のボトルが生まれ、優しい人が全部一気に補充する羽目になるのである。

 

研究室のメンバーが3人とかだったら、誰がやったか一目瞭然だから、責任の所在がはっきりしていてこういったことは起こらないと思う。

 

しかし、10〜15人ほどのメンバーが互い違いに実験を行うことで、誰がやったかわからないし、罪の意識も薄れる。

 

そもそも、使い切っている・使い切っていないの基準も、個人や環境によって変わってくると思うので、人数が増えるほど「使い切っていない」と自分を正当化してしまうのかもしれない。

 

でも、そんな研究室でも、いつも物を元に戻してくれている人、補充してくれている人(その中には僕もいるつもりなんだけど笑)、

 

また、僕の研究室以外でも、皆さんの会社や家などで、言われなくても会社や家の状態を向上させたり快適性を保つ行動をしている人、

 

僕はあなたたちの同志です。

 

でも、僕もだけど、そういう人って、実は「人のためにやってる」とはあんまり思ってないと思う。

 

「自分はこうありたい」「自分のチームはこうあってほしい」と思ってする行動が、研究室や会社や家での平和維持活動になっているだけだ。

 

個人の哲学的な問題だから、逆にそれを他の人にもさせるのは難しい。

 

ルールを作ることは簡単だ。ルールで縛れば実質上は成り立つ。

 

しかし、僕の理想とする「皆が自発的にチームのために動く」姿ではない。

 

ルールがあるから人を思いやるのか?ちゃうやろ。

 

でも悲しいが、もしかすると「ルール」は、集団内の人間がお互いに思いやりを持てない集団サイズになった時に、作られるものなのかもしれない。

 

今度、法の起源や歴史も学んでみようかな。

 

人は集団になった時、自分への責任やメリットが少ない時、どれだけ他の人に思いやれるか、チームのために動けるか。

 

また一つ、人生の課題ができた。

 

でもそんな僕自身の行動もやはり、程度の問題・グラデーションの問題で、

 

先述のように、僕は歩車分離式の交差点に置き去りになっている車が気になるし、それを救う自分でありたいが、まだ今のところ救えていない。

 

自分に関することか、自分が所属している団体に関することかどうかが、僕にとっての思いやりを持つ境界線なのかもしれない。

 

だがこの気持ちを表明することで、次チャンスが来たら意識すると思うし、他の場面で思いやりの機会を増やせると思う。

 

いつか哲学が羞恥心を超越する。

 

Have a nice day!