Discomfort is the feeling of learning ミネソタの歩き方019
いらついた。
「教えて」とも言ってもないことを、教えようとお節介を焼いてくる、アメリカで同じ研究室に所属しているパキスタン人にだ。
例えば僕が、とある冷凍された試薬が溶けるのを待つために放置していたら、「もう溶けたんじゃない?」とわざわざ言ってくる。
正直、なめてんのか?、そのために時間まで計って溶かしている俺が忘れるとでも思ってんのか?と思ってしまう。
もうプロセスはわかった上で実験していて、僕のほうが詳しいのに、あれやこれやと想像で口をはさんでくるのだ。
そして毎日、僕が何かをしていたら、何の実験をしているか、たとえデスクワークをしていても何をしているかを聞いてくる。
デスクワークなんて、見れば「コンピュータ関連の何か」であることは一目瞭然なのだが、わざわざ知ろうとしてくる。
ちなみに僕にだけではない。そこにいる人みんなに聞いて回っている。
逆に、僕に実験のことで質問してきて、「それはやったことないからわからない」と答えても、自身が想像で言うからなのか、僕に対しても何かしらの回答を求めてくる。
最終的にI said I don't know!(わからんって言ってるやろ!)と強めに言って終わらせてしまった。
挙句の果てに、僕が先に実験が終わったから帰ろうと思ったら、「(僕が)先に終わることを知っていたら、今やっている実験を始めなかったのに」とか言ってくる始末だ。
これぞMind your business!って感じだ。
僕はインドには行ったことがないが、インドに行った人からは、インド人は厚かましい、胡散臭いなどの話を聞く。ひょっとすると隣国のパキスタンでもそういう傾向があるのかもしれない。
ああ、これも思い出した。
冬休み期間は、大学の循環バスが18時までということを、僕がネットで調べた上で、「もう研究室を出ないと間に合わない」と言っているのに、
「いつもは夜遅くまで動いてるから大丈夫」とか言ってきて、
だから、こっちも普段は夜遅くまでやってることぐらい知ってて、その上で冬休み期間のことを調べて言っているのである。
調べもせずに、僕が言葉にせずとも一回通った思考回路の途中の部分を、改めて指摘してくるのでむかつく笑
おそらく日本人は、「空気を読む」、すなわち文脈を推測する習慣があるから、いつもバスを利用している僕がわざわざ「もうバスがない」と言っているってことは、今日は何か特別な状況なのだな(しかも冬休み期間だから)ということはなんとなくわかると思う。
しかし、パキスタン人を例に出して申し訳ないが、より直接的にものを言う海外では、ちゃんと言わないと伝わらないのだろうなということを、身を持って感じた。
※日本vs海外で「行間を読む」系の話はキリがないのでこの辺にしておく。(以前に関連する記事も書いたのでもしよければ読んでください→(「サービスが行き届いた国」はある程度の同調圧力によって成り立つ ミネソタの歩き方017 - オオブログ!)
そして今日、僕自身も、実験の忙しさと海外で感じている種々のストレスがつのってしまっていたのだろう。
そのパキスタン人がいつものようにお節介にも「弁当を持って来たから、ちょっと食べていいよ」と言ってきたのだが、
「いや、いらんいらん」って感じで雑に答えてしまった。
笑っていたが、少し悲しそうな目をしていた。
これは流石に、厚意を台無しにした僕が悪いなと反省した。
バックパック中とかならまた違ったのかもしれないが。
僕もまだまだ未熟だ。
違う日のこと。
同じ研究室の中国人と、例のパキスタン人が毎日僕たちが何をやっているか聞いてくることについて話題になった。
そこで、やっぱり心理的境界が違うよね、という話になった。
日本人や中国人、おそらくアメリカ人やヨーロッパ人もそうだが、我々は無意識に他人との境界を作っている。
他人のことは自分には関係のないことという概念が浸透している。
漁業で言う、排他的経済水域みたいなものだ。
必要じゃない限り、わざわざ他人が何をやっているか気にしないし、察せることは言わなかったりする。
自分の水域が小さいから他人の水域も小さいと思ってガンガン入ってくるということが、心理的に起きているのではないかという見解になった。
だがなんだろうか。
これはおそらく日本人やその他のいわゆる先進国で、人と人とのつながりが希薄になった社会に生きる我々が、とうに忘れ去ってしまった「自他の境界がない」という感覚だと思う。
お節介な彼らにとって、他人の運命は自分の運命でもある。
というかもはや我々が無意識にやっている他人とか自分という区別をあまりしていないのかもしれない。
僕たちは他人の時間を使ってしまうと申し訳なく感じる習性があるが、パキスタン人がそこにルーズなのも、自分の時間でもあると思っているからだろう。
運命を共有しているから、僕の実験中に、あれやこれやと色々指摘してきて、頑張って役に立とうとしてくれるのではないか。
毎日みんなが何をやっているか把握しようとしているのではないか。
弁当をわけようとしてくるのではないか。
一緒に帰ろうとしてくるのではないか。
そういえば、小中高では、学校や部活が終わるタイミングが同じということもあるが、友達と一緒に帰っていたことを思い出した。
もう大学の研究室にもなると、わざわざ人と帰るタイミングを合わせていない。
研究室は研究のための場所であり、基本的にプライベートとは切り離して考えているからだと思う。
その結果、煩わしい人間関係もないが、温かい人間関係もない。
日本の都市部での孤独感の理由は、パキスタン人のウザさが教えてくれる。
インドに行った人は、インド人のウザさが恋しいという人がいる。
そういえば北海道の田舎でも、食べれないって言ってるのにめっちゃ野菜をくれる農家さんがいる。
大阪の祖母も、僕が来ると何時だろうが、食後だろうが否応なくピザを2枚注文する。
もう僕が生きている間には、日本全体がそんなウザくて温かい社会になることはないのかもしれないなという儚さを少しばかり感じながら。
アメリカ滞在記まとめ↓