オオブログ!

答えのないことを考えるのが好きな大学院生のブログ。

アメリカと日本でマスクをしてる人数を数えてみた

帰国して、約2週間経った。

 

アメリカではほとんどマスクをつけない生活を送っていたから、日本に帰ってきてまたマスク生活に慣れるのに大変だ。

 

今日も病院に行くときにマスクを忘れて外に出てしまい、(日本の)病院に入るためにマスクはしておくべきだと思ったから、マスクをコンビニで買ってから病院に向かった。

 

今でも「推奨」のはずではあるが、マスクをしていないと入店お断りのような貼り紙をしている飲食店も多い。食べるときはみんな外して話しているから、ほとんど意味はないと思うが(笑)

 

政府の発表によると、3月13日以降はつけなくてよくなるのだろうと思う。やっとである。

 

僕がアメリカに行った2022年5月25日の時点では、アメリカの人はほとんどマスクをしていなかったから、日本人は少なくとも約10か月は長くマスクをつけている。

 

ワールドカップや欧州のサッカーの試合などを観れば海外の人たちがマスクをつけていないのは一目瞭然だろう。

マスク着用をコロナ禍の代名詞だとすれば、日本はコロナ禍を他国よりも1年ほど長く続けたのだ。何の差がこうさせているのか。日本を責めるわけではなく、これはただただ興味深い。

 

色んな理由が考えられると思う。日本にはコロナ流行以前から風邪予防としてマスクをつける習慣があったし、そもそも全体のためなら自分を犠牲にすることが美徳とされるような文化が元からある。

 

以上のように、ふだんからこの問題に関心があったから、帰国の際のシカゴでの乗り継ぎで時間があったので、自分の座っているベンチの前を通り過ぎる人のなかで、マスクをしている人の割合をとりあえず300人ぶん調べてみた。(アメリカ中部時間の2/20午前10時ごろ)

 

シカゴ・オヘア空港:300人中31人がマスクをつけていた。およそ10.3%だ。

 

そして帰国後、池袋駅で人を待っている時間で同じことをしてみた。(日本時間2/21午後18時ごろ)

 

池袋駅:300人中289人がマスクをつけていた(顎マスクは外しているとみなした)。およそ96.3%だ。

 

今まで体感としては感じていたけど、初めて数字として見てみて、やはり大きな差だなと思った。

 

ただし、日本に帰国して感じるのは、圧倒的に人口密度が高い。

マスクをすることによる新型コロナ感染の予防効果は、日本でのほうが大きい可能性があるので、単純に比較していいのかはわからない。

 

あと、これは完全に私見だが、アメリカの同調圧力がなさすぎることによる治安やサービスの悪さを考えると、日本の治安やサービスを享受できるならマスクをつけるぐらいどうでもいいという境地になった(笑)

 

銃乱射のような事件が起きる可能性に対して、マスクの煩わしさは無視できる範囲の誤差だ。

 

アメリカの人は、バスの座席に平気で土足を乗せるぐらい、他人のことを考えていない。そんな気質が元からあるから、マスクもすぐに外せたのだと思う。

 

マスクはめんどくさいけど、日本にはアメリカのようにはなってほしくないのである。

 

他人からプレッシャーがあるのは確かに時々息苦しいかもしれない。でもそのプレッシャーのおかげで、安全で快適な社会が成り立っていることも忘れてはならない。

 

ではまた!

 

 

 

 

ラテン語を知っていると世界の解像度が上がりそうという話

年末年始、アメリカで友達もいないので、一人で読書して過ごしていた。

 

そこで読んだのが、フェルマーの最終定理という本。

 

300年以上未解決だった数学の問題について、それに関連する古くは紀元前のピタゴラスから、1995年に証明したワイルズまで、数学とは何かということと、その壮大な歴史について書かれた興味深い内容だった。

 

さて、その中で、フランス人のフェルマーがイギリス人宛てに数学の難問を送り付ける遊びをしていたり、スイス生まれのオイラーがロシアやプロイセンで活動していたりと、ヨーロッパのなかでの数学者たちの行き来が目立った。

 

なかなか島国の日本人には想像できない感覚のことだ。

 

今では英語が国際的な言語のような扱いをされているが、彼らが当時、どのようにしてコミュニケーションを取っていたかというと、今では一般的にはほとんど使われていない、ラテン語を使っていたらしい(今でもバチカン公用語ではある)。

 

フェルマーの最終定理の原文も、「証明を思いついたが余白が狭すぎてここに書くことができない」という有名な言葉も、ラテン語で書かれている。

 

ラテン語から派生した言語はいっぱいある(参考)ので、前から少し興味はあったし、学部時代の研究室の指導教員に、研究室を去るときの寄せ書きにCarpe diem(今を生きろ)とラテン語が書かれていて、印象に残っている。

 

そこで今回は、ラテン語について、専門家でもなんでもないが、色々調べてみた結果を書いていきたい。

 

一見関係なさそうな言葉の繋がり

先述のフェルマーの最終定理という本のなかで、英語のcalculate(計算する)は、かつて計算用に使われていた小石を表すラテン語caluculusから派生したと書かれていた。

 

小石とcal~で始まるということからひょっとするとと思い、calcium(カルシウム)の語源も調べてみたところ、石灰を意味するcalcsisに由来することがわかった。

 

「計算する」と「カルシウム」という、意味的には全然違うものの語源が実はどちらも石を表すcalxから派生したと知り、面白かった。

 

Connecting the dots

次に、普段、微生物系の研究をしているので、研究で使うような用語についても触れておく。

 

生物の学名などにはラテン語が使われることが多い。

例えば、食品などに用いられる酵母Saccharomyces cerevisiaeのcerevisiaeは、ビールを意味するラテン語のcerevisiaからきている。

 

酵母がアルコール発酵をすることに由来するのだろう。

 

ここで、また僕の記憶のなかから一つつながったものがあった。

 

南米でバックパックした時、現地でほぼスペイン語を使っていたのだが、ビールを注文する際、よく「セルベザ!」と言っていたことを思い出したのだ。

 

調べると、このスペイン語のcervezaは、ラテン語のcerevisiaから派生しているらしい。南米での経験を懐かしむとともに、また点と点がつながり、一人で天を仰いで感動した。

 

日本語ももしかしたら…

最後に、前から疑問に思っていることについて、深掘りしていきたい。

 

これはラテン語について知る前からなのだが、日本語のカラスと英語のcrowsが似ているなと思っていた。

※crowsは複数形だが、今回はただの思いつきによる調べ学習なので、一旦そこは無視させてもらう。

 

ラテン語ではカラスはなんて言うのだろうと思い調べると、ラテン語ではcorvus(読み:コルウス)というらしい。またカラスにもcrowsにも近い!

 

そこで、ラテン語はヨーロッパの色んな言語に派生したと先述したが、ルネサンスごろから日本と交易していたポルトガルとオランダについて調べてみた。

 

ポルトガル語のカラス:corvo(読み:コゥルボ)

オランダ語のカラス:kraai(読み:クラーイ)

 

とまた、特にオランダ語は、けっこう「カラス」に近い。

 

もしかして、ヨーロッパから日本に伝わったのかと一瞬思ったが、「ヤタガラス」が日本神話にも出てくるほど、カラスは昔から日本にある言葉だ。

 

では逆に日本からヨーロッパに伝わったのかとも思ったが、調べる限り、そのような記述はなかった。

 

一説によると、日本語のカラスは「カーカー」と鳴く音と「ス」という鳥類を表す接尾語に由来していると言われる(参考)。

この参考サイトによると、ヨーロッパでも同様に鳴き声にちなんでつけられた可能性があるため、このように、違う言語間でも似たような音になっているのかもしれない。

 

有名かもしれないが、ニワトリの鳴き声を表す言葉は、日本語がコケコッコーなのに対し、英語ではcock-a-doole-do(クックアドゥードゥルドゥー)というように全然違う。

 

カラスやcrowsが鳴き声に由来しているのであれば、それはカラスのカーカーという声が、いかに多言語間で、同じように聞こえているかということの表れだ。

ニワトリは違ってカラスは同じに聞こえている、この差も興味深い。

 

全く違う国と地域で、もしかすると語源が同じかと思わせるような言葉があり、それらが似ているのは生き物の声のような、地域に寄らず普遍的?なものが由来かもしれない。

 

生物学をやっている身として、生物と社会がどう交差し、ともに進化してきたのかを考えるのは、とても楽しい。

 

ではまた。

 

言語シリーズはこちら↓

higassan.hatenablog.com

 

 

 

Discomfort is the feeling of learning ミネソタの歩き方019

いらついた。

「教えて」とも言ってもないことを、教えようとお節介を焼いてくる、アメリカで同じ研究室に所属しているパキスタン人にだ。

 

例えば僕が、とある冷凍された試薬が溶けるのを待つために放置していたら、「もう溶けたんじゃない?」とわざわざ言ってくる。

正直、なめてんのか?、そのために時間まで計って溶かしている俺が忘れるとでも思ってんのか?と思ってしまう。

 

もうプロセスはわかった上で実験していて、僕のほうが詳しいのに、あれやこれやと想像で口をはさんでくるのだ。

そして毎日、僕が何かをしていたら、何の実験をしているか、たとえデスクワークをしていても何をしているかを聞いてくる。

 

デスクワークなんて、見れば「コンピュータ関連の何か」であることは一目瞭然なのだが、わざわざ知ろうとしてくる。

ちなみに僕にだけではない。そこにいる人みんなに聞いて回っている。

 

逆に、僕に実験のことで質問してきて、「それはやったことないからわからない」と答えても、自身が想像で言うからなのか、僕に対しても何かしらの回答を求めてくる。

最終的にI said I don't know!(わからんって言ってるやろ!)と強めに言って終わらせてしまった。

 

挙句の果てに、僕が先に実験が終わったから帰ろうと思ったら、「(僕が)先に終わることを知っていたら、今やっている実験を始めなかったのに」とか言ってくる始末だ。

 

これぞMind your business!って感じだ。

 

僕はインドには行ったことがないが、インドに行った人からは、インド人は厚かましい、胡散臭いなどの話を聞く。ひょっとすると隣国のパキスタンでもそういう傾向があるのかもしれない。

 

ああ、これも思い出した。

冬休み期間は、大学の循環バスが18時までということを、僕がネットで調べた上で、「もう研究室を出ないと間に合わない」と言っているのに、

「いつもは夜遅くまで動いてるから大丈夫」とか言ってきて、

 

だから、こっちも普段は夜遅くまでやってることぐらい知ってて、その上で冬休み期間のことを調べて言っているのである。

調べもせずに、僕が言葉にせずとも一回通った思考回路の途中の部分を、改めて指摘してくるのでむかつく笑

 

おそらく日本人は、「空気を読む」、すなわち文脈を推測する習慣があるから、いつもバスを利用している僕がわざわざ「もうバスがない」と言っているってことは、今日は何か特別な状況なのだな(しかも冬休み期間だから)ということはなんとなくわかると思う。

 

しかし、パキスタン人を例に出して申し訳ないが、より直接的にものを言う海外では、ちゃんと言わないと伝わらないのだろうなということを、身を持って感じた。

※日本vs海外で「行間を読む」系の話はキリがないのでこの辺にしておく。(以前に関連する記事も書いたのでもしよければ読んでください→(「サービスが行き届いた国」はある程度の同調圧力によって成り立つ ミネソタの歩き方017 - オオブログ!

 

 

そして今日、僕自身も、実験の忙しさと海外で感じている種々のストレスがつのってしまっていたのだろう。

そのパキスタン人がいつものようにお節介にも「弁当を持って来たから、ちょっと食べていいよ」と言ってきたのだが、

「いや、いらんいらん」って感じで雑に答えてしまった。

 

笑っていたが、少し悲しそうな目をしていた。

これは流石に、厚意を台無しにした僕が悪いなと反省した。

バックパック中とかならまた違ったのかもしれないが。

僕もまだまだ未熟だ。

 

違う日のこと。

同じ研究室の中国人と、例のパキスタン人が毎日僕たちが何をやっているか聞いてくることについて話題になった。

 

そこで、やっぱり心理的境界が違うよね、という話になった。

 

日本人や中国人、おそらくアメリカ人やヨーロッパ人もそうだが、我々は無意識に他人との境界を作っている。

 

他人のことは自分には関係のないことという概念が浸透している。

漁業で言う、排他的経済水域みたいなものだ。

必要じゃない限り、わざわざ他人が何をやっているか気にしないし、察せることは言わなかったりする。

 

しかしそのパキスタン人の排他的経済水域は小さい。

自分の水域が小さいから他人の水域も小さいと思ってガンガン入ってくるということが、心理的に起きているのではないかという見解になった。

 

だがなんだろうか。

 

これはおそらく日本人やその他のいわゆる先進国で、人と人とのつながりが希薄になった社会に生きる我々が、とうに忘れ去ってしまった「自他の境界がない」という感覚だと思う。

 

お節介な彼らにとって、他人の運命は自分の運命でもある。

というかもはや我々が無意識にやっている他人とか自分という区別をあまりしていないのかもしれない。

 

僕たちは他人の時間を使ってしまうと申し訳なく感じる習性があるが、パキスタン人がそこにルーズなのも、自分の時間でもあると思っているからだろう。

 

運命を共有しているから、僕の実験中に、あれやこれやと色々指摘してきて、頑張って役に立とうとしてくれるのではないか。

毎日みんなが何をやっているか把握しようとしているのではないか。

弁当をわけようとしてくるのではないか。

一緒に帰ろうとしてくるのではないか。

 

そういえば、小中高では、学校や部活が終わるタイミングが同じということもあるが、友達と一緒に帰っていたことを思い出した。

 

もう大学の研究室にもなると、わざわざ人と帰るタイミングを合わせていない。

研究室は研究のための場所であり、基本的にプライベートとは切り離して考えているからだと思う。

 

その結果、煩わしい人間関係もないが、温かい人間関係もない。

 

日本の都市部での孤独感の理由は、パキスタン人のウザさが教えてくれる。

 

インドに行った人は、インド人のウザさが恋しいという人がいる。

そういえば北海道の田舎でも、食べれないって言ってるのにめっちゃ野菜をくれる農家さんがいる。

大阪の祖母も、僕が来ると何時だろうが、食後だろうが否応なくピザを2枚注文する。

 

もう僕が生きている間には、日本全体がそんなウザくて温かい社会になることはないのかもしれないなという儚さを少しばかり感じながら。

 

アメリカ滞在記まとめ↓

higassan.hatenablog.com

素人によるM-1分析②「システムの台頭」

こんにちは。

 

今日も前回に引き続き、ウエストランド井口がいらないといっていた、素人によるM-1の分析をやっていきたいと思う。

前回の記事→素人によるM-1分析①「決勝進出3回目以降で優勝する難しさ」 - オオブログ!

 

今回は「システム」について。

 

なぜこれを取り上げたかと言うと、掴み・ボケとツッコミの精度・間・声の抑揚といった、単純な「漫才の上手さ」だけでは勝てない時代に突入していると思うからだ。

 

それらを数値化するものがないからどうしてもイメージの話になってしまって、ふだん研究をしている者として心苦しいが、

2018年、霜降り明星が優勝したあたりからだろうか。単純な話芸の技量だけではもう勝つのは難しく、きちんと雰囲気にハマり、大会の象徴にまでのし上がらないと優勝できない。

 

そこで個人的に目立っている気がするのが、「システム」だ。

 

システムを完璧に定義するのは難しいが、

優勝した組で言えば、ミルクボーイの行ったり来たりする漫才や、ウエストランドのあるなしクイズ、霜降り明星大喜利のようなツッコミ、

優勝していない組で言えば、ジャルジャルの国名わけっこ、東京ホテイソン縦読み、ぺこぱの否定しないツッコミなど、

ひとボケ、ひとくだり終わるごとに帰ってくる場所のある漫才だ。

 

広義には、マヂカルラブリーや錦鯉の、動きのあるボケに、ツッコミが延々とツッコみ続けるあの漫才も、システムと呼べそうだ。

 

この「システム」を導入することのメリットとして、以下の3つが挙げられると思う。

 

1つ目のメリットは、状況の説明に時間をかけなくていいことだ。

 

漫才はコントと違い、大道具をがっつり使うわけではないから、漫才の舞台となっている現場を、状況ごとに説明しないといけない。

 

例えばウエストランドのあるなしクイズのように、最初の一回だけ何をするか説明しておいて、後はずっとそれを軸に漫才をし続けることができる。

 

客は無駄に情景を想像する必要がなく、置いてけぼりになりにくい。

 

そして、状況の説明のぶんの時間を他の笑いに費やすことができる。

 

ただし、状況を限定してしまうことで単調になる可能性は大いにあるので、限定されたなかで面白くできるのは各組の手腕があってのことだというのは言うまでもない。

 

2つ目のメリットは、客が自分たちの笑うべきタイミングを予測できることだ。

 

もちろん誰でもいつでも笑っていいのだが、芸人なら狙って笑わせにいっている場所が必ずある。

 

そこできちんと多くの客を笑わせることができれば、ウケの量が大きくなる。

 

霜降り明星粗品のツッコミ、ミルクボーイ内海のツッコミは、「来るってわかっててそれを超えてくる」から客もつい笑ってしまうのだと思う。

 

従来主流だった王道のしゃべくり漫才では、この笑うタイミングが断続的に出てくるから、じわじわと笑えても、客が一斉にドカーン笑うような笑いが起きづらかった。

 

3つ目は、1回目と2回目(最終決戦)で同じシステムを使えることだ。

 

1回目で高得点を取れた場合、客も審査員も「まだあれを聞きたい」となっていると推測できる。僕が客だったらそう思う。

 

そこで、確固たるシステムを作っていないコンビは、1回目と全く違うネタを披露する。

 

上手くはまる場合もあれば、「1回目のほうがよかった」となる場合もあるだろう。

 

しかし、システムを作っておけば、システムを見せた時点で、一定の期待に応えることは担保される。

そしてシステムは同じままで、中身を変えることで、新鮮さをキープすることができる。

 

2回同じことをすることは飽きられるリスクがあると捉えられるかもしれない。

しかし、彼らは同じ「システム」をもう一度やっただけで、同じ題材をもう一度やっているわけではないのだ。

 

つまり、客の「まだあれを聞きたい」と「新鮮さ」の両取りができるのである。

 

以上3点が、システムを取り入れることのメリットだと考える。

 

2023年以降もシステムを持った組が優勝するのかしないのか。

 

今後もM-1から目が離せない。

 

いや、どんだけ好きやねん。

 

ではまた!

 

P.S.

真空ジェシカも、基本的にツッコミが、ボケの意味を説明しつつそのワードで笑わせる大喜利ツッコミだ。これは霜降り明星と同じである。

しかし、明らかに違う点は、ツッコミの強さだ。

粗品が体言止めのような一言でビシッと終わらせるのに対し、ガクは「○○だ~」みたいなフワッとしたツッコミをする。

ツッコミがまだ続くのか続かないのかわからないので、ボケの川北のほうに視線を向けていいのかわからない。

プレゼンと同じで、ボケのときはボケ、ツッコミのときはツッコミというように、見るべき場所に視線誘導することが大事なのだ。

これは上記の2つ目のメリットに挙げた、「来るとわかっててそれを超えてくる」笑いに通ずる。

 

他のバラエティーで見せている真空ジェシカのセンスはめちゃくちゃ好きだからこそ、M-1という舞台でも輝いてほしいと、ド素人ながら意見を書かせてもらった。

 

 

素人によるM-1分析①「決勝進出3回目以降で優勝する難しさ」

アメリカに滞在しながら、M-1 2022をTverで視聴した。

 

サッカーワールドカップをAbemaで見るために、ちょうど有料のVPNを契約していたので、M-1も見ることができた。

 

海外にいながら日本のコンテンツを見過ぎてしまうともったいない気がしたので、今はVPNは解約した(笑)

 

今回のM-1の優勝はウエストランド

 

ネタ中でも井口がお笑い分析とかいらねえって言っていたが、今回はそのお笑い分析をしたいと思う。

 

ウエストランドは2回目の決勝進出で優勝した。

 

過去の優勝者の決勝出場回数を見てみると、以下の通りだ。()内は、優勝した年が何回目の決勝出場だったか。

 

2022 ウエストランド(2)

2021 錦鯉(2)

2020 マヂカルラブリー(2)

2019 ミルクボーイ(1)

2018 霜降り明星(1)

2017 とろサーモン(1)

2016 銀シャリ(3)

2015 トレンディエンジェル(1)

2010 笑い飯(9)

2009 パンクブーブー(1)

2008 NON STYLE(1)

2007 サンドウィッチマン(1)

2006 チュートリアル(3)

2005 ブラックマヨネーズ(1)

2004 アンタッチャブル(2)

2003 フットボールアワー(3)

2002 ますだおかだ(2)

2001 中川家(1)

 

これを見ると、9回目で優勝した笑い飯のような極端な例外もあるが、3回目以降の出場者が存在する2003~2022の16回のうち、3回目以降で優勝したのは4組しかない。

 

また、2010年の中断があけた新生M-1と呼ばれる2015年以降に関しては、中断前(2001-2010)も出場していた銀シャリを除き、全ての組が1回目か2回目で優勝している。

 

これによって、新生M-1がどれだけ入れ替わりが激しいかがわかるかもしれない。ちなみに、新生M-1になってから、3回以上決勝に出場していて優勝できていない組は、

 

ジャルジャル(3 ※前期含めると4)、スーパーマラドーナ(4)、和牛(5)、かまいたち(3)、オズワルド(4)、インディアンス(3)、見取り図(3)、ゆにば~す(3)など、

ゆにば~すの川瀬名人M-1以外のテレビに出ないのは置いといて、テレビでよく見るような実力者が並ぶ。

 

もちろんこれと同時に、多くの1、2回目の決勝進出者も敗北している。ただ、単純に決勝への出場回数を実力だと捉えるなら、3回目以降の進出での優勝者がもっと出てもおかしくないと思うのである。

 

さて、なぜ3回も決勝に出てこれるほどの実力を持ちながら、彼らは優勝できていないのだろうか。

もちろん、彼らの実力のことをとやかく言うわけではない。決勝に出てきている時点で全組が優勝できるポテンシャルがあると思う。

 

ただこの記事では、近年の傾向から、決勝進出回数の観点で話を進めていきたい。

 

なぜ常連組が優勝しづらく、1回目か2回目の決勝進出者から優勝者が出やすくなっているのかという点についてだ。

 

これについて、3つの要因を考えてみた。

 

1つ目は、「見たことない」の爆発力だ。

霜降り明星やミルクボーイがこれにあたる。粗品の見たことのないツッコミの仕方、ミルクボーイの見たことのない行ったり来たり漫才は、一発で彼らがその年M-1の主役になる空気を作った。

 

他の賞レースやライブも見ているコアなファンを除き、M-1しか見ない人も世の中には多い。審査員のなかにも、普段から見る人とあえて見ない人たちがいる。

 

そこで、今までに見たことのないやり方で笑いを取り、そのまま優勝をかっさらっていくパターンだ。

ぺこぱのツッコまないツッコミは確実に新しかったが、同年にミルクボーイがいたのが運の尽きだった。

 

常連組は、皆が見たことがあるやり方で決勝に何度か来ていて、逆にそれを期待されてしまうという十字架を背負っているため、この「見たことない」笑いをやるのが難しくなる。

 

2つ目は、認知による笑い

マヂカルラブリーや錦鯉、ウエストランドがこれに当たる。

2020年に優勝したマヂカルラブリーは2017年に最下位、2021年に優勝した錦鯉は2020年に4位、2022年に優勝したウエストランドは2020年に9位を取っている。

 

ほぼ無名の状態で1回目に出場し、「キャラを認知」され、1回目の反省点を修正して2回目で爆発するパターンだ。

 

野田クリスタル、長谷川、井口の3人に共通することは、変人だったり、バカだったり、偏見持ちだったりと、本人の性格ありきのネタをやっていることだ。

初見では本人たちのキャラが十分に浸透しておらず、ふざけていても誰がふざけているのかよくわからず、あまり笑えない。

 

しかし、1回目で認知されたことで、2回目でどんなキャラクターの人がふざけているのかがわかり、笑いが起きやすい。

 

その点、キャラが立っているかまいたちの山内や、和牛の水田、インディアンスの田渕などは、本当に惜しいところまで行っていたと思う。

しかし、2回目でその壁を破ることができなかった。

3回目以降は、「認知される」段階を越え、先ほどの「見たことある」の状態になってしまうというジレンマがある。

 

だから2回目まででできるだけ仕留めないといけない。

 

3つ目は、決勝進出による忙しさの増加だ。

 

何度も決勝進出していると、劇場もテレビ出演も増えてくる。劇場はネタをやると思うのでM-1にとってもいいのかもしれないが、テレビ出演が増えてくると、ネタを仕上げる時間がなくなっていく。

 

ぺこぱを例にとると、

2019年の番組出演本数は12だったのに対し、2019年末にM-1決勝に初めて出場すると、2020年は309本の番組に出たらしい。

 

とくに、最終決戦に残ると、それ関連の出演も増えるだろう。

 

その点、2つ目のところで挙げたマヂカルラブリー、錦鯉、ウエストランドの3組は、幸か不幸か、1回目の決勝進出の際に最終決戦にまで行っていない。

 

キャラだけは認知させ、忙しさはそこそこに留めるという、M-1の観点では、ちょうどいい売れ方ができたのだ。

 

以上の3点が、僕が決勝進出3回目以降で優勝するのが難しいと考える理由だ。

2023年以降、この分析通りにいくのか、それともこれを覆すコンビが現れてくるのか。

 

今後もM-1から目が離せない。いやどんだけ好きやねん。

 

ではまた。次は違う切り口から分析します。

 

参考↓

大会の歴史 | M-1グランプリ 公式サイト

M−1成績一覧

博多大吉さんが初の年間首位!ブレイクタレントはぺこぱ! ~ ニホンモニター 2020タレント番組出演本数ランキング~ | ニホンモニター株式会社

 

 

 

 

フランス代表「エムバペ」の発音から日本語の発音の多様性を知る

男子日本代表も健闘した、サッカーワールドカップ2022が終了した。

 

その中で、圧倒的なスピードと得点能力で存在感を出していたのが、フランス代表のキリアン・エムバペ選手だ。

 

サッカーの話も大好きだがここではおいておこう。今回も英語関連の話になる。

 

自分は今アメリカで生活していて、アメリカ人はもちろん、アフリカ・インド・中国・スペイン系など、多様な発音に触れていて、発音に敏感だ。

パキスタン出身の人が研究室にいるのだが、その人の発音に毎日耳をアジャストするのに数分かかる笑

 

海外にいると勝手に英語力が伸びていくと思われがちだが、実は家に帰って、単語は知ってるけど実際どうやって発音するのかわからない単語などを調べては吸収して、ネイティブ相手に試してたり、ネイティブが使ってた表現を別の人に使ってみたりの繰り返しで伸びていっている気がする。

 

ところで、

学校ではちゃんと教えてくれない英語の発音をYouTubeや洋ドラマで後天的に学んだ自称発音マニアとして、どうしても気になってしまうのが、日本のアナウンサーたちの「エムバペ」の発音だ。

 

エムバペを、ローマ字表記で言うとすればemubapeと発音している。

 

アナウンサーたちは、一音一音はっきりと発声するトレーニングを積んでいると思うから、彼らは何も悪くないのだが、海外の実況などをたまに聞いているサッカーファンかつ発音マニアの僕からすると、違和感が凄い。

 

原因はmuの部分だ。「ム」とカタカナで書いているからそのまま読んでいるのだろうが、実はエムバペの綴りはMbappéで、mのあとにuの文字がない、すなわち母音がない。

 

templeとかsimpleのmのように、唇を合わせるだけのmの発音だ。simpleのことを「シムプル」と発音しないように、Mbappéも「エムバペ」と発音してしまうと違和感がある。

 

サッカーファンならおなじみだと思うが、エムバペは実は「ムバッペ」や「エンバペ」と表記されていることもある。

 

「ムバッペ」は、「エムバペ」と同じ理由でムをmuと発音しちゃうし、

「エンバペ」だと、気をつけないと今度はnの発音(例:endのn)が出てきてしまう。

 

mをnで発音したとしても、次のbの音を出す直前で唇が閉じられてmの形になるから、そういう意味ではぎりぎり「エンバペ」が近いかもしれない。

 

要するに何が言いたいかと言うと、外国語には、カタカナで表現できない音があるということだ。

 

そして、日本語にはほぼすべての音に母音がある(※例外は後述)。

母音は声帯の振動をともなって音を出す「有声音」に分類される。

日本語はほとんどの音が子音+母音でセットの1つの音になっており、有声音だ

 

しかし英語などの外国語では、声帯が振動しない「無声音」が存在する。

 

catのtなど目に見えて母音がないものもあるし、riceのceなどのように表記上では母音があるように見えるが発音上は母音を発音しないものもある。

 

本当か?と思う人は、喉に手を当ててriceを発音した時に、iのところでは喉が震えるが、eのところでは震えないのを感じ取ってみてほしい。

これが有声音と無声音の違いだ。

 

Mbappéを「エムバペ(emubape)」と読むとおかしく感じるのも、mも無声音だからなのではないかと初めは思った。

 

しかし、詳しい人はお気づきかもしれない。

実は子音のmは有声音だ

 

mを発音するときは喉が震える。

 

さらに調べたところ、バ行・パ行・マ行の前のmは有声音のなかでも「鼻音」と呼ばれる音に属すことがわかった。(参考:【ん!の発音3種類】3つの鼻音[m] [n] [ŋ]!! - ネイティブキャンプ英会話ブログ

 

やはりsimpleと同じように、唇を閉じたまま「ン」と発音するようだ。なので「ム(mu)」とは違う。

また、上の参考URLにあるように、nともŋとも異なる「ン」なので、そこも注意したい。

 

日本人でも、「新橋」のように、バ行の前は鼻音のmになっているということで、Mbappéを表記するとすれば「エンバペ」がいいのではないかと思う。

 

リアルなやつも聞いてみよう。

 

How to Pronounce Kylian Mbappé - YouTube

 

↑この発音を聞いても、「エ」なんか言ってるか?って思うので、個人的には「ンバペ」だと思う(笑)

 

これを認めてしまうと、しりとりで「ン」がついても継続できてしまうが(笑)「ンジャメナ」って地名もあったかな。

 

「ン」で始めるとしりとりで鍛えられた日本人は混乱するので、カタカナ表記ではエから始めてるのではないかと推測している。

 

【日本語の無声音の話】

さて、先ほど、日本語はほぼすべての音が有声音だと言った。

 

しかし、母音のi, uが無声子音に挟まれたときや、文の最後に来たときは、i, uの声帯の振動がなくなって、母音が聞こえにくくなることがあるらしい。(参考:東外大言語モジュール|日本語|発音|実践編| 3 ネイティブ並の発音を身につけるために 3.3.1 無声化母音の産出

 

わかりやすい例だと思うのは、「~です」と言うとき、多くの人がdesuではなくdesと発音している。

 

しかし、日本人のなかでもたまにdesuと発音する人がいて、勝間和代さんのYouTubeの冒頭の「勝間和代です」の「です」はdesuになっている。

 

desを聞き慣れている人にとっては、desuを聞くと小さい「ぅ」が語尾についているようでついていないような変な感じがして、違和感を感じる人も多いと思う。

 

学部時代、とある同期が研究発表するときの語尾にずっと違和感を感じていたのだが、ついにその違和感の正体がわかった。

 

このように、英語の発音を勉強したおかげで日本語の発音を客観的に見ることが多くなり、日本語の発音も深く知ることができるようになってきた。

 

これも外国語を勉強する一つの面白さかもしれない。

 

ではまた!

 

映画「ドライブ・マイ・カー」で印象に残ったセリフ

どうもです。

 

これから、ドライブ・マイ・カーで出てくるあるセリフと、そのセリフが出た背景について超簡単に書くので、それをネタバレと捉えるなら読まないでほしい。

 

※ネタバレ注意

超簡単に言うと、とある夫婦がいて、主人公(夫)が家を出た後に予定が変わって早く家に帰ってきた時に、妻の浮気現場を目撃してしまう。

しかし、主人公はそれ以降、妻に何も言わず(目撃したことも伝えず)、平静を装って生きていく。

その後、妻は急死してしまう。

しばらくして、色んな人に刺激を受けた後に主人公が言うセリフが、

 

「僕は正しく傷つくべきだった」

 

だ。

つまり、自分の気持ちに蓋をせず、妻にきちんと自分の怒りを伝え、問題と向き合うべきだったということだ。

 

この言葉が一番、今の自分に響いた。

 

なぜかと言うと、浮気の話どうこうではなく、「違和感を持っているのに平静を装ってしまうこと」が結構あるからだ。

誰でも少しは見られる症状ではないだろうか。

 

目上の人や、同期でもリーダー格の人がいれば、その人のプライドや場の流れを優先して、違和感を感じても平和に受け流したり、

辛い経験があっても周りに悟られないように気丈に振る舞ってしまう人は、程度の差はあれど、いるのではなかろうか。

 

自分はどちらかというと、周りを気にして気丈に振る舞っているというよりは、「落ち込んでる時間が自分にとって無駄に感じるから」気丈に振る舞ってしまうところがある。

 

ミスしたことをすぐに切り替えないと後の結果に影響してしまう、スポーツをやっていた経験も大きいのかもしれない。

 

そのメンタリティは当時のスポーツや、今では実験において役立っているとは思う。

 

ただそのことが、自分の気持ちに正直になるという問題・ストレスを感じているのに感じないようにしている(かも?)問題の、根本的な解決から本人を遠ざけているのではないかと感じた。

 

辛い経験をした後にすぐに気丈に振る舞うことは一見、強くも見えるが、わだかまりを抱えたまま生きていかないといけない。問題を直視できていないという意味では弱いのかもしれない。

 

それなら泣いたり怒鳴ったりして、人に迷惑をかけてでもうまく感情を表現したほうが、弱そうに見えて、問題に向き合えている可能性がある。

 

そしてもう一つ、これは「嫉妬」に対しても言えると思う。

 

「あいつは天才だから」「僕は能力がないから」と言うことで、比較するのをやめて正直に「嫉妬をせず」平静を装ってしまうことが、多かれ少なかれある。

 

潔くてクールで悟っているようにも見えるし、ゆるく生きていくことが最近のトレンドにもなっている気がする。

 

しかし、それはある意味で、「頑張ったら勝てるかもしれないけど、頑張って勝てなかった時が怖いから、頑張らない」ことの、言い訳に使ってしまってはないだろうか。

 

もちろん、大谷翔平に今さら嫉妬しようとは到底思えないけど、

かなり近い人に対しても、「あの人は凄い」の一言で終わらせてしまったり、周りがそう言うと、流されてしまうことがある。

 

今度から、違うと思ったら「いや、俺は勝ちたい」ってちゃんと言おう。言わずに心の中で思うだけでもいいけど。

 

誰かと比較せずに、気楽に生きていく・ゆるく生きていくと思うことが、人生を豊かにすることは絶対あるし、たまにはそう考えないときつい。

 

しかしそれが原因で、やりたいことがわからなくなってしまうのはもったいない。

 

人と比較しない(「あの人は凄いから」の一言で片付ける)のは、プライドが低いように見えて、「本気でやれば勝てるかもしれない状態を保っている」ということとも取れるから、逆にプライドが高い人がやる行動なのかもしれない。

 

嫉妬しないことを諦めに使うぐらいなら、ちゃんと嫉妬している自分に向き合って、正々堂々努力する自分でいたい。

 

「僕は正しく傷つく」

 

ではまた!

 

PS

うちの彼女は、わりと毎回ちゃんと傷つく時は傷つくし、違和感を持ったら言うタイプらしく、上記の言葉はあまり響かなかったらしい。

 

※ここからネタバレ注意

それよりも、女性ドライバーが、主人公の車を運転する前に、ドライバーをつけることを渋っている主人公を見て、「私が女性だからですか?」と言ったのが響いたそう。

 

僕的にはドライバーが女性だとわかる前から主人公はドライバーをつけることを渋っていたから、男女は関係ないと思っていたけど、観る人がふだん置かれている環境(補足:彼女は日系大手企業で働いている)によっても、感じ方が変わるのだと思った。

 

※ここから思い出話

今思い出したが、中学の時、社会のテストで絶対フビライハンが正解のところを、先生がチンギスハンが正解として採点していた。

当時の社会の教科書は、たしか地理公民と歴史で2冊に分かれていて、その時期の授業では地理公民をやっていて、テスト範囲は歴史というトリッキーな時期だった。

僕を含めみんなフビライハンについて載っている歴史の教科書は家に置いていた時の出来事だったので、その場で採点の間違いを証明できなかった。

みんなそんなに勉強するような中学じゃなかったから、自信を持って間違いに気づいているのはクラスで僕だけで、強くも出れなかった。

 

家に帰り、歴史の教科書を明日持って行って先生に抗議しに行こうと思っていることを母に話した時、

「もう、あんたやめとき」

と言われた。

一日経ってから間違いだったことがわかると、テストをもう一度回収して採点し直す手間がかかるし、先生のメンツにも関わる。

先生も人間だし、今思うと、母は僕が先生に目をつけられるのを避けてくれたのだと思う。母なりの正義があった。

 

悔しかったが、初めて空気に流されて、違和感(というか間違い)をスルーしてしまった瞬間だった。

あの時は、大人になるとはこういうことなのかもしれないと思ったけど、色々経験した今考えると、そんなのは大人でもなんでもない。

14歳か15歳なんだし、もっとダルい生徒になって、荒らしてもよかったのかもなと思う。

 

中学の時は考えが未熟でスルーしてしまったが、研究の世界では間違いをスルーしていては研究者失格なので、研究人生では絶対にないようにする。

 

では本当に、また今度!