オオブログ!

答えのないことを考えるのが好きな大学院生のブログ。

合理性と趣

僕は毎日、大学でドリップバッグか自分で挽いたコーヒーを飲んでいる。

 

ウチの研究室の近くにシンクがあって、熱湯(80℃ぐらい?)が出る蛇口がある。

 

僕はそこから出したお湯を一回ティファールのようなポットに入れて沸かし、100℃まで上げる。

 

コーヒーは、熱すぎるお湯で淹れると苦味成分が多めに出てくるので、ちょっと冷ましてから淹れるから、結局80℃ぐらいになる。

 

では、シンクの蛇口からお湯を直接入れるべきなのだろうか?

 

ある先輩はよく、蛇口から直接入れていて、「これ(思いついたの)すごくない?」って言ってきた。

 

違う。僕がそれを思いついていないわけではない。

 

単純に、蛇口から直接ドリップしたくないのだ。

 

コーヒーを飲む理由は、カフェインの摂取という側面もあると思うけど、

 

缶でもインスタントでもなく、レギュラーコーヒー(自分で淹れるタイプのコーヒー)を飲んでいるのなら、味はもちろんのこと、お湯を注ぐという動作自体や、香り、お湯が粉の上に溜まって染み出していく光景、これらによって風情を感じるから、人はそのタイプのコーヒーを飲むのではないだろうか。

 

確かに蛇口から直接淹れる方が、動作が少ないぶん効率的だ。

 

ポットで沸かすと、電気も無駄だし、普段エコなことをしようと思っている自分の信条にも反しているかもしれない。

 

しかし、僕たち感情を持った人間が生活を続けるには、どこかで自分を喜ばせないといけないのではないか。

 

もし僕たちが人間の体を持ったロボットなのだとしたら、機能としてのコーヒーだけを利用するのが合理的だから、カフェインの錠剤を摂取すればいい。

 

だが、人間が感情を持ってしまっている以上、作業の効率化が一番合理的であるとは限らないのではないかと思う。

 

生身の人間は、カフェインの錠剤で短期的な効率は上げられても、そんな生活に嫌気がさして、明日大学に行く気がなくなるかもしれない。

 

長期的に見て、心身が健康じゃないと作業の継続ができない。

 

悔しいが、これが人間だと思う。

 

話を戻す。

 

僕はコーヒーを淹れること自体にどこか趣を感じているのだと思う。

 

だからたとえ温度が同じでも、蛇口からのお湯でコーヒーは淹れない。

 

コーヒーを淹れるための時間は長くなってしまうが、僕は幸せで、明日もこの時間を楽しみに作業を続けるだろう。

 

感情を含めた合理性を考えてみる。

 

もちろん、経済学などにおける合理性とは全然定義が違うと思う。

 

しかし、僕はこの数値化できない合理性こそ、人間が前に進んでいく推進力だと感じている。