こんにちは。
現在、絶賛アメリカ滞在中なのだが、土曜日に天気が悪かったので、家にこもっていた。
なので今回はアメリカには関係ない投稿だ。
突然だが、これは僕が絵を描くことが好きだからかもしれないが、たまに絵を描きたくなる時はないだろうか。
小さいころにポケモンを描いたりして、上手くはなくても祖母に褒められたりしたのが良かったのかもしれない。
ここで否定されていたら嫌いになっていたかもしれないので、グラードンを描いたあのとき褒めてくれた祖母には感謝したい。
小学校のクラブ活動で漫画部?的なものにも一瞬入っていたし、自分で作ったキャラクターをノートに書いたりしていた。中学校の環境啓発ポスターで(田舎ながら市内で)入選した気がする。
子ども時代のほうが、今よりもクリエイティブだったかもしれない笑
大人になるにつれ、損か得かで判断してしまうことが増え、意味もなく熱中して絵を描くことはどんどんなくなっていった。
さらにその後、野球など、だんだん他の事にハマってしまったこともあり、本格的に美術系のことは何もしらないまま生きてきたのだが、友人の勧めで読んだ「ブルーピリオド」で、芸大生のように、美術を本格的に突き詰めていく人がいることを知った。
大学4年の卒論前に追い込まれている頃、家に帰ってビールの缶や腕時計の絵を描いていた。その時間は卒論のことを忘れて没頭して楽しかった記憶がある。一種の現実逃避だと思う。
だが、忙しい度合いが平常時に戻ると、そのこともすっかり忘れ、また絵画をしなくなった。
職業じゃないなら、絵画は暇なときにしそうなイメージだが、僕は忙しい時にやってしまうのかもしれない。
無事に卒業して、大学院に入学し、たまたま環境問題に興味を持ち、いまは博士課程の学生として土壌の研究をしているが、
本などで勉強しているうちに、環境問題には資本主義などの経済システムが関わっていて、経済システムの形成には宗教観も関わっていた可能性が示唆されていて、時代ごとの宗教観はその時代の美術が表していて、ということがわかり、
「え、美術って意外に重要やん」
と感じていた。
そんな時にノリで西洋美術史の本を買ったがまだ読めていない笑(日本に置いてきてしまった)。
そして昨日、たまたまquizknockの美術の動画を見て、急に絵画欲が再燃した。
卒論前に絵を描いた時もそうだが、いつも罫線付きノートしかない。
脱線するが、罫線を「けいせん」と読むことを、このブログを書いていて初めて知った。自分で読んだことも打ったこともなかった言葉だった。
描いたのは白いマグカップだ。
ビール缶を描いたときと似ていたが、ビール缶と違うところは取っ手があるところだ。
流線型の取っ手の光と影を表すのがめちゃくちゃ難しかった。
ここであることに気づく。
線のないとことろに線を引くと、本物とは違って見えるということだ。
どういうことかというと、流線型のマグカップに、本来は明確な線など存在しない。
飲み口ですらとがっているわけではなく、丸みを帯びている。
線を引くのは楽だ。簡易的には、対象の輪郭が取れ、漫画的にはマグカップとわかる絵ができるからだ。しかし、それは近づいているだけで、本物には到達できない。
この感情が芽生えた時、ピンときた。
これって、統計学と似ていないか、と。
統計学でも、グラフ上のバラバラの全ての点に、できるだけ近い線を引いて、それらの点を表現する式(モデル)を当てはめることがある。
最小二乗法を知っている人はそれをイメージしてもらえるとよい。
でもそれは、近似なだけで本来は存在しない線なのだ。
線が存在しないところに線を引くと、本物(真の値)からはズレる。
線があると、他の値も推測できたり、情報を送る手段としてはとても効率がいい。しかし、それはあくまで予測された値でしかないということには、常々、注意しておかなくてはならない。
まさか絵を描きながら統計の考え方とのアナロジー(類似性)を感じるとは思わなかった。
デッサンの何がいいか。
それは、心を無にしないと描けないところだと思う。
「ここはこうなっているはずだ」と思って筆を入れても、それは大方の場合、違っていて、変な絵になる。
心を無にして、素直に、見たまんまの角度に筆を入れていく作業が必要になるのだ。
そのうち、先ほど述べた統計とのアナロジーのような、普段は思いつかなかったアイデアがピンと脳裏に思い浮かぶことがある。
この快感は、雑念を捨てて絵を描いたことがある人にしかわからないと思う。
線のないところに線を引くと、簡易的には本物に近づくが、本物ではない。
絵や統計だけでなく、国境や人種、色んなことに言えるかもしれない。
ではまた!