高校の現代文か何かで読んだ、ファッションの話で、
「多くの人が、服装はみんなと大体同じもの(流行ってるもの)がいいけど、完全に同じは嫌と考える」
のような文章(詳細は忘れた)がとても印象に残っている。
人間のなかで、コミュニティに属したいという気持ちはあるが、そのコミュニティ内ではアイデンティティを持っていたいという感情があるのかなと思った。
服装と同じく、「人と違うことをする」のって、ある意味でコミュニティから抜け出した部分を見せるということだと思う。
奇抜な服装をするのと同様、社会に受け入れられるか(収入が得られるかなども含め)不安が少しある。
でも人と同じことをしてるように見える人でも、「誰でもやる事・出来ること」は、差が生まれないので、社会へのインパクトが薄い(収入にもならない)から、実は少しずつ人と違うことをしている。
要は、「多くの人がしていること」は、よく見るファッションの範囲内で、ファッションが被らないようにしているという行動なのに対し、
「人と違うことをすること」は、奇抜なファッションをしているというだけの違いだと思った。
突然ですが僕の話をします。
こんな変なブログを書いてるっていうこと自体もそうだけど、僕は人と違うことに少し慣れている。
一人っ子、左利き(スポーツは左で鉛筆と箸は右。クロスドミナントって言うらしい。)、手が濃い、耳になんか付いている、苗字が5文字、背が高い、転校生(小2のことなので関係ないかも笑)
などなど。
子どもの頃は多様性を尊重しようみたいな概念はないので、耳のこともけっこう言われた。
僕じゃなければ泣いたりしてたんじゃないかって思うぐらい。笑
その度に笑って誤魔化してたけど、なんでこんなんがついてるのか?って考えたことはもちろんある。
中学ぐらいからすね毛とかは濃かったし、濃くない人生のほうが現代社会は生きやすいとはずっと思ってるけど、
その辺からもう、人と違うことには慣れてきた。
(ハーフの人とか移民の人は、まだまだ日本には少ないので、肌の色や海外系の名前で、僕以上にもっとそういったことを感じてるんだろうなぁ。)
そんな流れで、人と違うことをすることに慣れてしまった僕は、
兵庫からわざわざ北海道に来て、3年連続で1か月自転車旅(野宿)し、ネズミのケツの温度を4時間に1回測るために徹夜し(研究)、南米でバックパックし、設立3年目の大学院に進み、アフリカで土を掘り(研究)、みんな就職したのに残って博士課程に行ってしまった。
小さい頃から人と違うことに慣れたことで、人と違ってでも自分のなかの最適解を常に追いかけようとする習性はついたのかなと思う。
もちろん少なければいいってことじゃない。
最初に言ったように、少数派は「奇抜なファッションをしている」だけ。
それが受け入れられるかはまだまだわからない。
それがファッションなのか、すね毛なのか、職業なのかの違いだと思う。
同じような服装をしているコミュニティから一歩抜け出すこと。
それは、新しいコミュニティ(奇抜な服装のコミュニティ)に属することでもあると思う。
博士に行くと、博士のコミュニティに入るし、毛深いコミュニティもあるし(ありません笑)。
このように、人間みんな、新たなコミュニティでじわじわアイデンティティを得る努力をしていくんだなと。
そんなことを考える今日この頃でありました。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました😆