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答えのないことを考えるのが好きな大学院生のブログ。

一周まわって「テストのための勉強」を批判できない

高校までは、世間知らずでもあったし、学校の勉強を頑張ることが大学という進路そのものに直結していたので、興味がそこまで湧かなくても、テストで良い点を取るためだけの勉強もできた。

 

というか、クイズで高得点を取る時の快感を得るために頑張るような感覚もあったと思う。

 

だが、大学に入って少しは世間のことがわかってきて、大学以降はテストの得点が進路に直結するわけでもないから、テストのためだけに勉強するのではなく、興味が湧くものの勉強を突き詰めるべきだという考えが自分のなかに生まれていた。

 

勉強をする意味は、人によって違うと思うけど、

僕にとって勉強は、世界のなかで面白いと感じることに関してもっと知るためにするものだったので、

 

語呂合わせや短期記憶だけで乗り切る「テストのための勉強」を、本質的でない、賤しい行為のように感じていた気がする。

 

しかし、好きなことを勉強し続けるにしても、いずれは、究極的には、誰かに頼らずにやっていかないといけない。

 

金持ちか自給自足マンじゃない限り、学費だったり生活をできるレベルの経済力がないと、好きなことを続けることができない。

 

そして、その経済力は、ベーシックインカムが導入されていない現状では、社会に何かしらの価値を生み出して、その対価によって得る必要がある。

 

では、その社会での価値は何で判断されるか?

 

飛び抜けてわかりやすい才能があれば、それで価値を生み出せるかもしれない。

 

だが、多くの人の場合、客観的な評価のしやすい基準で、その人の価値を判断されることになるだろう。

 

その客観的な基準が、テストの得点であったりするのである。

 

例えば、ハリウッド映画の製作に興味があって留学に行きたくて、その資金としての奨学金が欲しいとする。

 

洋画や洋楽が好きで、英会話のうち、日常会話やスラングはめちゃくちゃ詳しくても、

奨学金の審査基準がTOEFLやIELTSの点数であれば、専門的な単語を勉強しないと、生活資金は得られない可能性が高い。

 

また、学生時代の業績として成績が優秀だったことを示す賞などは、社会からの評価を得られて、

自分のやりたいことを「いざやれそう」になった時、相手側がその人を評価する、すなわちその人にとってはチャンスをものにするための助けにもなると思う。

 

つまり、自分の好きなことで評価を得られていないうちは、好きなことじゃないとしても、TOEFLや成績優秀を示す賞といった、「客観的評価を示すカード」を持っておくべきなのではないだろうか。

 

これには、そんな中途半端な保険をかけているから、好きなことで頭一つ突き抜けられないんじゃないかという反対意見もあると思う。

 

霜降り明星せいやさんは、売れていない時代も、芸人は芸人としての仕事にかけるべきで、「バイトは本気でやったらアカン(バイトをする人間になってしまう)」と思っていたらしい。

 

せいやさんの意見も、一理あると思う。

 

しかし、保険をかけたほうが安心して生活できて、好きなことをしやすい、クリエイティビティが生まれやすい人もいるだろう。

 

一人前になるまでは、まず自分が社会的評価を得やすい方法で対価をもらい、生活や気持ちに余裕ができたら自分の好きなことを進めやすくなる人も多いのかもしれない。

 

この構図は、留学資金を得たい学生だけでなく、「起業したいがまずは資金を貯めるためにサラリーマンをやる人」「ミュージカル歌手になりたいがまずは人気を得るために流行している曲をYouTubeで歌う人」などなど、

色んなものに当てはまると思う。

 

霜降り明星だって、社会に認知されるまでは、漫才以外に自信があったとしても、まず必死にM-1(みんなが評価できるわかりやすい基準)で勝つ努力をしていただろう。

 

認知されてしまえば、霜降りのトークやギャンブルやその他のジャンルのお笑いでも、活躍しやすくなるのだ。

 

いくら一つのことで高いクオリティーを持っていても、それだけでは社会に評価されずに埋もれてしまうことがある。

 

そんな中、「特に好きでもないが社会的に評価を得やすいこと」が、「好きだけど今のところ誰も評価してくれないこと」を続けるための道を切り開くことが多々あるのではないか。

 

なので、一周まわって、僕は「テストのための勉強」を批判できない。

 

受動的なテストのための勉強も、

一周まわってからのテストのための勉強も、

行動としては同じだ。

 

だが、一周まわったほうが、その行動をする意味合いは自分のなかではっきりしているのではないだろうか。

 

だから、一周まわること、つまり一度は社会的評価のための行動に疑問を感じるフェーズは無駄ではないと思っている。

 

まあ、そういうことを考えすぎる、疑問を持ちすぎると精神的にしんどいこともあるし、

 

考えてたら一歩一歩進むのが遅いが、考えずにロボットのようにできたほうが結果的に仕事ができてモチベーションも給料も上がったりすると思うし、

 

狙っていないことが将来に繋がってくることもある(僕も学部時代ネズミを注射できるぐらい完璧に片手で持てるようになっていたが、大学院から土壌微生物の研究に移って、もうネズミ技術は使わないと思っていたけど、結局、動物と土の相互作用に関する共同研究を獣医学部の人として、僕のネズミを掴む技術が重宝されたりする)し、

 

一概には言えないけど、

 

自転車で行き先がわかっていないと、看板を見たり地図を見ながらなので思いっきり漕げないのと同じく、

人生もその日の目的地が決まっているほうが思いっきり漕げると思うので、

 

それが社会的評価を得るためでもなんでも、とりあえず日々、考えて目的地を設定して、突き進むしかないのかなと感じる。

 

その目的地が楽しいかどうかは行ってみないとわからない。

 

だが、その目的地のために全力で漕いだプロセスだけは紛れもない事実として残る。

 

ある「テストのための勉強」を、そういったプロセスにできているかどうか、たまに考えていきたいものである。

 

(※ちなみに個人の見解ですが、霜降り明星はめちゃくちゃ漫才が好きだと思います。文章の流れのなかでの例えとして出しただけです。あと、社会的評価を得ること自体が好きな人もなかにはいると思います。全ての人に気を使って文章を書くと何も主張できないので、そこは無視しました。)