オオブログ!

答えのないことを考えるのが好きな大学院生のブログ。

映画「ドライブ・マイ・カー」で印象に残ったセリフ

どうもです。

 

これから、ドライブ・マイ・カーで出てくるあるセリフと、そのセリフが出た背景について超簡単に書くので、それをネタバレと捉えるなら読まないでほしい。

 

※ネタバレ注意

超簡単に言うと、とある夫婦がいて、主人公(夫)が家を出た後に予定が変わって早く家に帰ってきた時に、妻の浮気現場を目撃してしまう。

しかし、主人公はそれ以降、妻に何も言わず(目撃したことも伝えず)、平静を装って生きていく。

その後、妻は急死してしまう。

しばらくして、色んな人に刺激を受けた後に主人公が言うセリフが、

 

「僕は正しく傷つくべきだった」

 

だ。

つまり、自分の気持ちに蓋をせず、妻にきちんと自分の怒りを伝え、問題と向き合うべきだったということだ。

 

この言葉が一番、今の自分に響いた。

 

なぜかと言うと、浮気の話どうこうではなく、「違和感を持っているのに平静を装ってしまうこと」が結構あるからだ。

誰でも少しは見られる症状ではないだろうか。

 

目上の人や、同期でもリーダー格の人がいれば、その人のプライドや場の流れを優先して、違和感を感じても平和に受け流したり、

辛い経験があっても周りに悟られないように気丈に振る舞ってしまう人は、程度の差はあれど、いるのではなかろうか。

 

自分はどちらかというと、周りを気にして気丈に振る舞っているというよりは、「落ち込んでる時間が自分にとって無駄に感じるから」気丈に振る舞ってしまうところがある。

 

ミスしたことをすぐに切り替えないと後の結果に影響してしまう、スポーツをやっていた経験も大きいのかもしれない。

 

そのメンタリティは当時のスポーツや、今では実験において役立っているとは思う。

 

ただそのことが、自分の気持ちに正直になるという問題・ストレスを感じているのに感じないようにしている(かも?)問題の、根本的な解決から本人を遠ざけているのではないかと感じた。

 

辛い経験をした後にすぐに気丈に振る舞うことは一見、強くも見えるが、わだかまりを抱えたまま生きていかないといけない。問題を直視できていないという意味では弱いのかもしれない。

 

それなら泣いたり怒鳴ったりして、人に迷惑をかけてでもうまく感情を表現したほうが、弱そうに見えて、問題に向き合えている可能性がある。

 

そしてもう一つ、これは「嫉妬」に対しても言えると思う。

 

「あいつは天才だから」「僕は能力がないから」と言うことで、比較するのをやめて正直に「嫉妬をせず」平静を装ってしまうことが、多かれ少なかれある。

 

潔くてクールで悟っているようにも見えるし、ゆるく生きていくことが最近のトレンドにもなっている気がする。

 

しかし、それはある意味で、「頑張ったら勝てるかもしれないけど、頑張って勝てなかった時が怖いから、頑張らない」ことの、言い訳に使ってしまってはないだろうか。

 

もちろん、大谷翔平に今さら嫉妬しようとは到底思えないけど、

かなり近い人に対しても、「あの人は凄い」の一言で終わらせてしまったり、周りがそう言うと、流されてしまうことがある。

 

今度から、違うと思ったら「いや、俺は勝ちたい」ってちゃんと言おう。言わずに心の中で思うだけでもいいけど。

 

誰かと比較せずに、気楽に生きていく・ゆるく生きていくと思うことが、人生を豊かにすることは絶対あるし、たまにはそう考えないときつい。

 

しかしそれが原因で、やりたいことがわからなくなってしまうのはもったいない。

 

人と比較しない(「あの人は凄いから」の一言で片付ける)のは、プライドが低いように見えて、「本気でやれば勝てるかもしれない状態を保っている」ということとも取れるから、逆にプライドが高い人がやる行動なのかもしれない。

 

嫉妬しないことを諦めに使うぐらいなら、ちゃんと嫉妬している自分に向き合って、正々堂々努力する自分でいたい。

 

「僕は正しく傷つく」

 

ではまた!

 

PS

うちの彼女は、わりと毎回ちゃんと傷つく時は傷つくし、違和感を持ったら言うタイプらしく、上記の言葉はあまり響かなかったらしい。

 

※ここからネタバレ注意

それよりも、女性ドライバーが、主人公の車を運転する前に、ドライバーをつけることを渋っている主人公を見て、「私が女性だからですか?」と言ったのが響いたそう。

 

僕的にはドライバーが女性だとわかる前から主人公はドライバーをつけることを渋っていたから、男女は関係ないと思っていたけど、観る人がふだん置かれている環境(補足:彼女は日系大手企業で働いている)によっても、感じ方が変わるのだと思った。

 

※ここから思い出話

今思い出したが、中学の時、社会のテストで絶対フビライハンが正解のところを、先生がチンギスハンが正解として採点していた。

当時の社会の教科書は、たしか地理公民と歴史で2冊に分かれていて、その時期の授業では地理公民をやっていて、テスト範囲は歴史というトリッキーな時期だった。

僕を含めみんなフビライハンについて載っている歴史の教科書は家に置いていた時の出来事だったので、その場で採点の間違いを証明できなかった。

みんなそんなに勉強するような中学じゃなかったから、自信を持って間違いに気づいているのはクラスで僕だけで、強くも出れなかった。

 

家に帰り、歴史の教科書を明日持って行って先生に抗議しに行こうと思っていることを母に話した時、

「もう、あんたやめとき」

と言われた。

一日経ってから間違いだったことがわかると、テストをもう一度回収して採点し直す手間がかかるし、先生のメンツにも関わる。

先生も人間だし、今思うと、母は僕が先生に目をつけられるのを避けてくれたのだと思う。母なりの正義があった。

 

悔しかったが、初めて空気に流されて、違和感(というか間違い)をスルーしてしまった瞬間だった。

あの時は、大人になるとはこういうことなのかもしれないと思ったけど、色々経験した今考えると、そんなのは大人でもなんでもない。

14歳か15歳なんだし、もっとダルい生徒になって、荒らしてもよかったのかもなと思う。

 

中学の時は考えが未熟でスルーしてしまったが、研究の世界では間違いをスルーしていては研究者失格なので、研究人生では絶対にないようにする。

 

では本当に、また今度!